お仕事奮闘中!

(前)

 あのお騒がせ娘――アーデルハイト・フリムニヒトに言わせれば、どうやら俺は飽きっぽい人間らしい。
 一時、巷を賑わせていた高名な吟遊詩人とやらも、この国の財政を立て直すために一族の猛反発を振り切って改革を執り行った為政者の名も、大陸の最東端に広がる領海、通称『世界の果て』を超えて異形のモノを討ち払ったという偉大な勇者達の名も、春の陽射しに溶ける雪とともにすっかり忘れ去られてしまっていた。
 これから俺が話すのは、そんな腑抜けた時代の、とりとめのない一幕だ。
 子供の頃、毎朝投函される唯一の機関紙を心待ちにしては、彼らの活躍、武勇伝の数々を食事も忘れて読み耽り、母親に叱られたことをぼんやりと思い出す。今にして思えば、外に出て同い年程度の連中と遊ぶよりもゴシップ記事にかじりついて一喜一憂する様はさぞかし軟弱な少年に映ったことだろう。
 あれから十数年。世界はどうでもいいほど平和だ。科学が進歩したお陰でインフラが多少発達したこと以外は、何も進歩していない。隣国が国境線の軍備増強に着手したという噂も、民衆が表立って生活に不満をくすぶらせているという話さえも耳に届かない。それほどまでに、平和だった。
 正門を出て、市街近郊にある霧に包まれた森を右に左にうねりながら南下する。この辺りの地形は見飽きるほど見慣れた風景なので、目を瞑っても抜けられるに違いない。もっとも、奴らに遭遇しなければ、と仮定した場合に限るのだが。
 道中、何台かの馬車とすれ違う。彼らはみな一様にありったけの交易品を荷台に載せていた。その証拠に、麻の布の上からきつく固結びされた荒縄がはちきれそうな様相を呈していた。
 そういえば、と思い当たる。
 明日は女王陛下の生誕五十周年祭らしい。らしい、というのは片時も忘れずそらで覚えていた情報ではなく、伝聞形で入ってきた証左だ。
 素直に知らなかったと打ち明けたところ、同僚のライゼルはあらん限りの侮蔑的な視線をぶつけてきた。自国民の風上にも置けぬ下賎な男だ、とでも言いたいのだろう。俺は好きこのみこの国に滞在しているわけではない。仕事の切れ目が縁の切れ目だ。だがライゼルは何故か俺を好敵手扱いしている。限りある仕事を奪い合い、勝ち取り、成果を挙げた者だけが認められるシステムとも無縁ではないのだろう。だから、冒険者ギルド《ラズベルグ》は何時だって飢えた目をした奴らでごったがえしている。
 正直なところ、あの息詰まるような空気には、未だに馴染めずにいる。もっとも、馴染む必要などないといえば、その通りではあるが。他の事を考えずに気が紛れるのは、皮肉にも任務中だけだ。とはいえ、依頼は迅速丁寧に、そして着実に遂行しなければならない。例えどのような依頼であっても、だ。人生という旅路を往くためには路銀がいる。そして、俺には養うべき家族がいる。遠ざかっていく馬車を尻目に、俺は歩調を速めた。
 鬱蒼とした森を抜けると、小径に行き当たる。この辺りは私有地なのだろう、行き交う通行人もはたと姿を見せなくなる。錆びた鉄門をくぐると、とぐろを巻いた蔦が器用に絡みついた古い煉瓦造りの建築物が姿を現す。ここが今回の依頼人――ジェフの居住地だった。ジェフは研究者の端くれらしく、ここで一人篭って研究に明け暮れている。
 もっとも、何の研究をしているかは定かではない。一旦彼に口を開かせると水を得た魚のように語り始めてしまうので、あえて聞かないのが賢明だったりする。
 鍵はいつものように開きっぱなしだ。俺はわき目も振らず彼の研究部屋に直行する。
 研究部屋につながる湿り気を帯びた木扉はいつも半開きで、蝶番の調子が悪いのか、女の悲鳴のような音を軋ませる。内部は奇妙なまでに薄暗く、肝心の当人がいるかどうかもわからないような状態だが、小さなランプの明かりが机の上で揺らめき、煮沸音を響かせていた。その傍らに、ボロきれみたいな白衣を纏ったジェフを見咎めた。ジェフは古びた椅子に背中を丸めて座っていた。
 ここに置いておくぞ、と一応声をかけてみるが、当然の如く反応はない。まあ、いつものことだ。身だしなみを整えればそれなりに精悍な顔つきの研究者は、煮えたぎる液体にくびったけだった。さすが、実験が恋人と公言しただけのことはある。
 机の上に目的のブツを置くと、俺はとっとと退散を決め込むことにした。街の雑貨屋で調達した『ふちなし草』だ。正直な話、その辺の雑草でもよさそうなものだが、クライアントの注文には忠実でなければならない。望むのなら、いつ凶暴な熊が出没するとも限らない河川まで『金色のシャケ』を取りにいかなければならないのだ――もちろん、これはただのたとえ話に過ぎないが。
 そうして薄暗い研究室を後にしようとすると、不意に絡みつくような視線を背中に感じた。ジェフが珍しく俺のほうをじっと見つめていた。まるで、値踏みをするような、あるいは実験対象を前にするかのような視線に俺は思わずたじろいでしまいそうになる。
「どうした。報酬は俺でなくラズベルグに支払ってくれればいい。それともブツに不備でもあったか。ふちなし草五つでよかったよな」
 しかし、彼は質問には答えず、ややあってから代わりに突拍子もないことを話し始めた。これだから研究者という人種は好きになれない。まあ、客としてはこれ以上ない金払いの良さなので、よもや文句をつけようもないが。
「もうすぐ、女王生誕祭だね。来週、だっけ」
「明日だ」
「ああ、明日、明日だったね。うん、明日か」
 何度も大げさに頷いては、一人しきりに納得している様子だ。ちなみに、大げさな身振りの割には、顔の筋肉が全くといっていいほど感情を表さないので、研究部屋の薄暗さと相俟って、殊更に奇妙な印象を受ける。
「もういいか」
「ああ、待ってくれないか!」
「まだ、何か」
「い、妹が来るんだ。今度の生誕祭の日に。それで、えっと」
 この男に妹――初耳だ。そいつもやはり研究者風情の世捨て人だったりするのか、と目の前の男を元に想像を巡らせてみるが、どうでもいいのでやめた。
「それで、その妹がどうしたんだ。わざわざ俺にそんなことを報告するために? あるいは護衛ならば、別途請け負うが」
「それが、実は、キミのど、同業になるかもしれないんだ。だから」
 同業? なるほど。察しはついた。
 しかし、この時世、女でラズベルグに志願するとはな。俺のような運び屋ベクターならまだしも、討伐ハンター警備ガードは成り手が少ないわりに離職率が著しく高い。人員の都合によっては女であっても厄介ごとを押しつけられるかもしれない。骨のある奴なら良いんだが。
「いろいろ厄介になるかもしれないから、よろしく頼むと。そういうことだな?」
「うん。よろしく頼むよ。まだ、学校を卒業したてだから、右も左もわからないはずなんだ。本当ならボクがいろいろ斡旋してあげたかったけど」
 と、ジェフは至極残念そうに肩を落とす。意外と家族思いの男だったんだなと、妙なところで感心した。
「わかった。引き受けよう。ただし、採用については保証できない。晴れてラズベルグの一員となれば、なるべく手助けはするよう努力する。それでいいか?」
 そう念を押すと、彼にしては珍しく礼儀正しくかしこまって、殊勝に頭を下げた。
 本部に報告を済ませると、すでに夕刻にさしかかっていた。何かの記念の際に建てられた時計台の影が長く伸びて、中央広場を行き交う人々もどこかせわしない。異国の香辛料を使った料理の香りが鼻先を掠めた。
 俺も急がなければな。遅くなるとあいつが小うるさく文句を垂れるに決まっている。
 と、自宅方面に向かおうとしたところで、何かが足元に直撃した。
 踵に軽く当たったそれは、足元でふらふらと揺れた後、動きを止めた。
「あ、待てこの〜!」
 なんだこれは、と謎の物体を拾い上げようとすると、背後から切羽詰った声が聞こえてきた。
 周りの人間がなんだなんだと、どよめく。
 その声が猛烈な勢いで俺のすぐ真後ろに迫ってきたことに気づいたときには、もう遅かった。
「きゃあ!」
 衝撃にバランスを崩された体はよろめき、いともたやすく地面へと投げ出される。
 そのままうつ伏せに倒れる。直後、掌に伝わる擦り傷特有のじんじんとした痛みと背中に覆い被さる何か柔らかいそれ。
「いたたぁ……」
 柔らかい物体が喋った。というか、重い。
「離れろ」
 そのまま、俺は起き上がろうとする。
「ちょ、ちょっと、何処触ってんのよ! この変態! スケベ!」
 声の主はやはりと言うべきか、女だった。それもなかなかに気の強そうなタイプだ。こういう手合いほど扱いが面倒なことは、もはや常識だ。触るも何も勝手にのしかかってきたのはお前だろうが、と文句をつけたい気持ちをどうにかこらえ、状況の把握に努める。些か不味い状況かもしれない。首を巡らせると、俺たちの周りには既に人だかりができていた。遠巻きに眺めながら、小声で何かを交わしている。この分だと騒動を聞きつけた警備の連中が、すぐに到着することになるだろう。連中は身内だろうと容赦なく取り押さえ、最悪の場合、正規軍に送られることになる。そいつは厄介ごとなので避けたい。仕方ない、と俺は未だ背中に絡みついて離れようとしない女に、小声で呼びかける。
「おい、お前」
「お前じゃないわよ、このスットコドッコイ!」
「いいから静かにしろ。このままだとお前も軍に送られるぞ」
「なんであたしが」
「さっきの、マナスフィアだよな」
 鎌をかけたつもりだった。咄嗟に思いついた嘘だったが、反応は図らずも予想以上だった。
「ど、どうしてそのことを」
「とりあえず、黙って協力してくれ、いいな」
「わ、わかったわよ」
 女が了解すると、立ち上がるように命令する。しかし、
「腰、抜けちゃったかも」
「はあ?」
「ダメ、立てない」
 俺は女を退けるようにして立ち上がった。悲鳴のような声がそこかしこから上がる。
「早くしろ」その場に背中を向けてしゃがみ込み、背中に乗るように指示する。わずかな逡巡の後、背中に再び重みを感じた。勢いをつけて立ち上がる。
 そして、人垣に向かい、愛想笑いを浮かべてみせる。
「あの、実はギルドで人探しを頼まれていたんですよ。それでようやく探し人を見つけ……え、誘拐? 滅相も無い。確かにそういう事件もたまには起きますけどね。ほら、ギルド証明証あるだろう、はい通した通した」
 人ごみを掻き分け、呆気に取られる市民を尻目に広場を後にした。
 そのまま複雑に入り組んだ人気の無い路地まで休まず進み続けると、女が下ろしてくれと何度も煩いので、その場で立ち止まってやった。
 解放された女は肩を怒らせると、俺の正面に回りこみ、キッと睨みつけた。だが、その姿に形容し難い違和感を覚え、すぐさま、その正体に行き当たる。服装こそ一般市民のそれと大差ないのだが、ただ一点、肩に掛けられた真紅の、身丈よりも長いマントがすべてを台無しにしていた。真紅のマントといえば、かつて勇者が纏っていたとされる象徴だが、残念ながら一介の市民――それも若い女が間違っても身につけるようなものではない。
 俺は踵を返し、帰ろうとした。
「待ちなさいよ」
「俺にはもうここにいる理由が無い」
「あたしにはあるのよ!」
「ぶつかったことならもう気にしてないぞ。その後に起きたことも、全部だ。これでチャラだろ、じゃあな」
「マナスフィアのこと、知っているの?」
「……」
「ねえ、知っているんでしょう? どうしてあんたみたいな男が、ううん、そんなことはどうでもいい。あんたは何処まで知っているの?」
 振り返る。真摯な瞳が、俺を捉えていた。
「さあな。ただ、あんたの知っている以上は知らないことだけは確かだな。俺は、錬金術士じゃない」
 錬金術士――その言葉を口にするだけで辟易した。そんなものは夢物語の世界だ。無から有を生み出し、道端の石ころを金塊に変えるという。そんな技術が当たり前のように存在するならば、生活は一変していたにちがいない。たとえ過去に実在した技術だとしても、今やロストテクノロジーと言って差し支えないだろう。いや、あるいは。目の前の女が、そんな途方も無い夢を追いかけているような気がした。
「あたし、その錬金術士よ、と言ったら信じる?」
「お前がそう言うんならそうじゃないのか」
「信じてないでしょ」
「信じれば、お前は魔女にでもなれるのか?」
「ふんだ、いいもんね。どうせあんたみたいな無愛想な男じゃ理解できないし、理解してほしくもないわよ」
「ああそう、悪かったね」
「さよなら。もう二度と会うこともないでしょうけど」
 フンと鼻を鳴らし、女が身を翻す。真紅のマントが大きく風に舞った。そのまま立ち去るかと思えば、じっと動こうとしない。それから、気まずそうに振り返り、
「あんた、この街の人? ちょっと、道を教えて欲しいんだけど」
 俺は肩を竦め、女の手から羊皮紙の地図を取り上げた。
「あ……」
「場所は何処だ。道案内くらいならしてやる」
「ここよ。青い屋根と真新しい風見鶏が目印になるって教えてもらったんだけど、こうも似たような建物が並んでると辟易するわね、まったく」
 後半の愚痴は無視して、女が示した場所を目で追っていく。ここから意外と近い。入り組んだ居住区の半ばに、目的の民家は存在していた。
 ――ちょっと待て。ここって、俺の家だ。いや……まさか、な。
「どうしたのよ。案内、してくれるんでしょう?」
「あ、ああ」
 何処となく上機嫌な女とは逆に、憂鬱な気分を隠せないまま、俺は石畳の路地を気の進まない足取りで歩き始めていった。
 その間、俺はどうしたものかと延々と考え続けていた。だが、思ったよりもずっと早く到着してしまったようだ。結局考えはまとまらないままだった。
「ここまででいいわよ、ありがと」
 目的地に到着すると女は礼をいい、口元を緩めた。
 杞憂であってほしいという一縷の望みは、見飽きるほど見慣れた外観を前に脆くも打ち砕かれたことになる。いったい何の用事なんだかね。
「あたし、アーデル。アーデルハイト・フリムニヒトっていうの。もし機会があったら立ち寄ってよね。そのときにはとっておきの錬金術、見せてあげるからさ」
「兄さん。お客様ですか?」
「……」
「聞いているんですか、兄さん」
 ノエルが窓から顔を覗かせていた。見慣れた銀髪が、今は目に眩しい。そして、もう一人の存在に気がつくと、すぐに顔を引っ込め、ちょっと待ってて下さい、と言った。
 女――アーデルハイトと名乗ったか――は俺を訝げに上から下まで無遠慮に見遣る。
「『兄さん』? 兄さんってひょっとしてあんたのこと? いや、まさか、そんなはずないわよね」
「お待たせしました。あの、ひょっとして、あなたがアーデルさんですか?」
「ええ、今日からこちらでお世話になるアーデルハイト・フリムニヒトよ。ノエルさん、でしたっけ? 兄からそう聞いたのだけど」
「ご存知でしたか。なら話は早いですね。早速ですけど、上がってください。いろいろと決めなければいけないことが山積みですから」
「そうね、それじゃお邪魔させてもらうわ」
 アーデルハイトの瑪瑙色した瞳が、こちらに鋭く向けられる。次いで、ノエルが所在なく佇む俺を視界に収めた。
「ねえ。ところで、あの男は」
「それも含めて説明します。ついてきて下さい。……兄さんも、です」
 やれやれと俺は溜息をつく。何も知らないのは兄ばかり、か。
 俺とアーデルハイトは木机に差し向かいで座っていた。あれからずっと無言のままだ。なにやら物言いたそうな視線が時折投げ掛けられるが、それに気付くとすぐ逸らされる。その繰り返しだった。
 ノエルが黒い香茶を三人分載せてやって来た。それぞれの前に陶器の器を置くと、アーデルハイトの向かい、つまり俺の隣に腰を下ろした。それぞれが一口を飲んだところで、最初に口を開いたのはアーデルハイトだった。
「説明、してくれるかしら」
「はい。どこからすればいいでしょうか」
「この男は、あなたの兄ってことでいいのよね」
 この男、と強調して俺をぞんざいに指差す。
「まあ、一応はそうなります。そして私は不承な兄と二人で暮らしています」
「ふ、ふふふ二人で?!」
「はい、駄目でしたでしょうか」
「だっ、ダメってことはないわよ。ない、けど」
 憎悪にも似た感情を込めて、アーデルハイトが俺を睨みつける。俺は香茶を含み素知らぬふりを続けた。
「ちなみに、部屋は簡単な仕掛けですが、鍵付きですよ。夜も安心です」
「あ、当たり前よ! ただ、こんな男と同じ所で暮らすのが嫌っていうだけ。あ〜あ、それ以外は完璧なのになあ。ノエルさんは可愛いし、家の中は綺麗だし!」
「そんなに綺麗ですか」
「実家に比べるとそれはもう段違いよ。それに清潔感があるし。やっぱり妹さんの細やかな気配りが行き届いてるなって感じよ。いっそ私の妹にしたいくらい」
「あ、ありがとうございます」
「それで、約束のアトリエの件なんだけど、一室借りちゃって大丈夫そう? 結構迷惑かけちゃうかもしれないけど」
「それに関しては問題ないです。ちょっと狭いかもしれませんが」
 俺を無視して勝手に話が進んでいく。双方納得しているかもしれないが、俺は完全に帳の外だった。
「兄さん」
 話を終えたノエルが俺の方を向いた。既にアーデルハイトは立ち上がっていて、奥の階段を上っていくところだった。
「ノエル、どういうことなのか説明してくれないか」
 俺はなるべく強い調子にならないよう細心の注意を払いながら、ノエルに問う。
 ノエルは、香茶を飲んでから、事の顛末を話し始めた。
「急な話だったので、伝えそびれてしまいました。本当はもっと後に受け入れる予定だったんです。でもアーデルハイト――アーデルさんが、どうしてももっと早く家に来て仕事を始めたいとの書簡があったので、一室を格安で貸すことにしました。本当にごめんなさい。兄さんに相談もせず、勝手な判断をしてしまって」
「あ、いや……そうか」
 余りにも正直な物言いに面食らうほかない。言うべきことは山ほどあるのだが、ノエルの神妙そうな態度の前に持ち合わせる言葉はなかった。
「兄さん、アーデルさんと何かあったんですか」
「いや、たいしたことじゃない。あいつ……錬金術士なのか?」
「はい。錬金術の学校を晴れて卒業した、とはジェフさんから聞きました。それで不承な妹ですがよろしく頼みます、と」
 錬金術の学校があるとさりげなく明かされた事実にも驚かされたが、聞き捨てならない単語をノエルは口にする。ジェフとは今日依頼の件で会ったばかりだ。そんなこと、露ほども口にしてなかったではないか。俺は心の中で舌打ちをした。
「兄さん、どうかしたんですか」心配そうにノエルが俺を見上げて、陶器のカップを両手で包み込んでいた。知らぬうちに、顔に出ていたようだ。俺は意識して、眉間をほぐす。
「いや、気にしないでくれ。それで、『アトリエ』というのはいったい何のことなんだ」
 ジェフの件は奴から再び依頼されたときにでも追及することにしよう。アーデルハイトが去り際に言ったアトリエという単語が強く頭に残っていたので、尋ねる。ノエルは困り顔を一瞬覗かせたが、すぐに普段の平板な調子を取り戻して、
「アトリエというのは、錬金術を行うための実験室みたいなもののようですね。学校生活を送っていたときは各々の生徒に一部屋ずつ与えられていたようです」
「それはまた贅沢だな」
「そうですね。でもその方が集中して作業をこなすことができるようですよ」
「へえ……」
「ひゃわあっ!! 失敗した!」
 ん?
 今何か声が聞こえたような、と思う間もなく、ボン、と大きな爆発音が聞こえてきた。決して微弱とは言い難い振動の後に、パラパラと天井から埃が落ちてくる。
「な、なんだ!?」
「行ってみましょう、兄さん」
「お、おう」
 俺達は二階の奥――昨日まで空き部屋だったそこに駆け付けた。扉は締まったままだが、施錠されていなかった。俺とノエルは目配せをする。ノエルは頷くと、一歩引き下がった。俺はノブに手をかけ、異音がないことを確認する。
 勢いをつけて押し開け、中に一歩踏み込んだ。
 白い煙が部屋中に充満していた。鼻と口を咄嗟に押さえると、奥まで慎重に進み換気をした。
「に、兄さん。アーデルさんが」
 煙が薄れてくると、床に黒っぽい物体が転がっていることに気づいた。
「う、ううううう……」
 黒焦げの物体がうめき声を上げた。
 物体は女の形をしていた。
「だ、大丈夫ですか?」
「あたしなら何とか。こんなこと稀によくあるわよ。あは、あはははは……」
 よく見ると煤のようなものにまみれていただけだった。顔から服はおろか、髪に至るまで真っ黒に汚れてしまっている。傍らには、錬金術とやらの実験に使っていたのか、割れたガラス器具や、木製の天秤、それに厚みのある書物が何冊も散らばっている。
「とりあえずお風呂に入りに行きましょう、アーデルさん」
「ダメよ! まだあたし、調合を成功させてないもん。それが終わるまでは待っててよ」
「あんた、学校を卒業してたんじゃないのか?」
「ブランクよ、ブ・ラ・ン・ク。って、いたのあんた」
 俺を見つけると、途端に不機嫌な調子に戻る。
「そりゃあいるさ。で、あんた錬金術士なんだろ? こんな初歩的のこと朝飯前じゃないのか」
「なっ、何も知らないくせにどうして初歩的だって決めつけてるのよこのアンポンタン! これはと〜〜っても高度な技術が必要で、髪の毛一本でも配分を間違えればどこか別の時代に飛ばされちゃうほどなのよ!」
 そいつは一大事だ。
「で、膨大な知識と高度な技術を要する錬金術を修めているほどのあんたがどうしてこんなしがない家に?」
「うるさい、出ていけ〜!」
 厚みのある書物が次々と投げ付けられる。
「兄さん」
 ノエルは要領よく扉の向こうに隠れてやり過ごしていた。
「今のは、兄さんが悪いです」
 ……この家に俺の味方はいなかった。
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