(後)

 翌日のことだ。世間は生誕祭に浮かれたムード一色のようだが、俺は昼まで惰眠を貪っていた。
 ラズベルグは年中無休で門戸を開いているが、わざわざ依頼の張り出しを確認しに行く必要もないし、確認に赴く気分でもなかった。それに、護衛や警備の依頼ならすでに埋まっているだろう。今日は一日骨を休めていようと考えていた――あいつ、アーデルハイトが現れるまでは。
 遠慮のないノックの音に気分を害した俺はふて寝を決め込んでいた。あれでも学校を卒業し、独り立ちを許された身なのだからそれなりの分別は弁えている、一応はそう思っていた。
 だが、それは重く鳴り響いた爆発音にあっさりと裏切られることになる。扉を何らかの爆発的事象で吹き飛ばしたアーデルハイトは、俺を見つけると、憎らしいほど明るい声で言った。
「なんだ、起きてるじゃない。あたし、あんたに用事があるのよ。あんたがあたしに用事はなくてもね」
 血も涙もないのか、この女には。
「用事とは何だ」
 弁償金はあとで高く請求することにしよう。
「あんたって、ラズベルグで働いてるのよね? 昨日の夜ノエルちゃ……さんに聞いたんだけど」
「ああ、しがない運び屋風情だがな」
「あの」そこで何かを逡巡するように言葉を探していたアーデルハイトだったが、視点を俺に定めると、照れ笑いに似た表情を浮かべた。「よかったらその、あたしをギルドに連れてってくれないかしら?」
 俺は真意を探るべく正面から視線を受け止める。瑪瑙色の瞳が、戸惑いを隠せず揺れていた。
「それは、依頼事をしたいという意味か? 何なら、直接この場で聞いてもいいが」
「あたし、ね。あたし、ギルドで働いてみたいの。それで何か人の役に立ちたいのよ」
 俺は言葉を失った。そういえばジェフがぽつりと口にしていたではないか。妹が俺と同業になるかもしれないからよろしく頼む、と。
「……ダメ?」
「却下だな」
「なんでよ!」
 食って掛かるアーデルハイトに、一言一句噛んで含めるように説明してやることにする。そのアグレッシブさは長所にも短所にもなりえるだろう。つくづく“あの”ジェフの妹という枕詞に疑問を抱かずにはいられないな。
「まず、お前は女だ。女といえど討伐に回される可能性だってないとは言えない。しかしながら身のこなしから戦闘の手ほどきを受けたという風にも見えない。次に、ギルドの仕事は誰にでもすぐ始められるわけではない。チュートリアルという仮依頼を期日までにこなした場合にのみ、ギルド証明証が発行される。チュートリアル自体はやさしめに設定されているとはいえ、一般市民が即座にこなせるような簡単なものではない。誰にでもなれたら俺達の食い扶持が確保できないという話はさておいて、だ。そして、これが一番危惧していることなんだが」
 俺は爆破され、木っ端微塵になった扉の残骸を指差し、女に指を移動させる。
「お前、危険人物だろ」
「ぐっ……そ、それはたまたまあんたが返事しなかったからよ!」
「たまたまで扉を壊された俺の身になれよ」
「ぬぬぬっ……! わ、悪かったわよ! これでいいでしょ、これで!」
 アーデルハイトは頭も下げずに謝罪の言葉を喧嘩腰で言った。何とも殊勝で誠意ある態度だ。
「謝って済むなら、ギルドも軍隊もいらない」
「うう〜っ! こ、これは必ず弁償するから、だからあんたは黙ってギルドに連れていきなさいよ」
「それは依頼なのか」
「え? そうよ、依頼よ。これで弁償もチャラになるでしょう。あんたもあたしも損はしない。丸く収まったわね?」
 そうか?
「まあいい。あんたが錬金術とやらで成功を収められるというんなら、そこから差し引いて頂戴するさ。今日はその前借りということでコールは徴収しない。それでいいか?」
「ええ。じゃあ、連れていって。えっと……」
「行くぞ」
「ちょっと、待ちなさいよ〜!」
 階下では、ノエルが窓の掃除をしていた。その背中に声をかける。
「ちょっと出掛けてくる。こいつ……アーデルハイトがラズベルグに行ってみたいらしい」
「おはようございます、兄さん。さっき何か爆発音が聞こえましたが、大丈夫でしたか?」
「それは、まあ」気まずそうなアーデルハイトをちらりと見遣る。「問題ない」どうせバレるのは時間の問題だろう。
「夕食はどうしますか。アーデルさんは?」
「あ、あたしはどこかで食べてくるから平気よ。ほら、せっかくのお祭りだし、それに家族の団欒を邪魔したら悪いし」
「あんたにもそんな気遣い、出来たんだな」
「あ、あんたのことじゃなくて妹さ――ノエルちゃんのことよ! 何勘違いしてるの?」
 いや、同じことだろう。
「そういうわけだから、もう行くわ。それじゃあノエルちゃん。せいぜいそこの気遣いに欠ける『兄さん』に変なことを吹き込まれないようにね」
「行ってくる」
「行ってらっしゃい。兄さん、アーデルさん」
 ノエルに見送られ、家を出る。
 通りから西に向け出発すると、しばらくして半歩後ろをついて歩いていたアーデルハイトがぼつりと零した。
「妹さん、よくできた子ね」
「俺と違ってな」
 先回りして言ってやる。
「そういう意味で言ったんじゃないわよ。ただ、何て言うか、あたし、自信なくしそう」
「……」
「あたし、お兄ちゃんのためによかれと思って錬金術を志したの。お兄ちゃんとは違った角度から、お兄ちゃんを支えてあげられないかって。ほら、あの人、研究に没頭すると周りが見えなくなっちゃうでしょ。そんな生活を続けていつかそれに耐えられなくて倒れちゃったら嫌だから。って、あんたにするような話でもないか」
「……いや」
「でも、まだ弱音を吐くには早いわよね。うん、今日はお祭りだし、こんな辛気臭い顔してたらせっかくのお祭り気分が台無しになっちゃうわ。あんたもつまらなそうな顔してないでもっと楽しみなさいよ〜」
「俺はもともとこういう顔だ。悪かったね」
「あはははは!」
 聞いちゃいなかった。アーデルハイトは俺を追い越すと、跳ねるようにして人や出店で賑わう中央広場へ駆けていった。
 紅いマントは、相変わらず彼女の痩身には似合わなくて、滑稽だ。
 石で造られたギルドの建物に到着すると、アーデルハイトはほへ〜と間の抜けた声を上げた。物珍しそうに柱に触れて、しきりに感心している。ギルドの周辺は、祭りの日にも関わらず、緊張感が漂っていた。守衛に証明証を見せ、志願者を同伴している旨を伝え、中に入る。
 中央のラウンジと呼ばれるスペースからフロアは二つに分かれていて、それぞれ左が討伐、護衛受付、右が調達、配達受付となっていた。ラウンジの隅にはカウンターと掲示板が設置されていて、そこが総合受付となっていた。掲示板で希望する依頼を選び、受付に伝えると、奥で詳しい説明を受けるというシステムになっている。
 俺達はまず総合受付に行き、受付の男性に声をかけた。男性は名をワルデンと言う。ワルデンは不精髭を触りながら朗らかに言った。
「やあ、来たね。おや、そちらのお嬢さんは……」
「アーデルハイト・フリムニヒトと申します。東の大陸から海を越えてやって参りました。本日はこちらのギルド《ラズベルグ》に志願したく思ったのですが、もう募集はされていないのでしょうか?」
 改まった態度でアーデルハイトが流れるようにお辞儀をした。こんな態度を見せられると、今までの彼女とは別人ではないのかと疑いたくもなる。
「それは遠くからご足労おかけしましたね。して、志願というのは……お嬢さんが?」
 ワルデンは俺に一瞬目をやり、目を丸くした。
「ええ、もしかしてダメでしょうか?」
 アーデルハイトはいかにも悲しそうに瞳を伏せる。女という生き物はこれだから怖い。
「いやいや。ラズベルグは何人なんぴとにも門戸を開放していますとも。ただ、お嬢さんに受けてもらうには少々心苦しいようなチュートリアルが用意されていますが、よろしいですか?」
「ええ、覚悟はできています」
「ふむ」
 ワルデンは口元を綻ばせると、鷹揚に頷き、カウンターの奥から紙片を取り出した。かつて俺も通ってきた道だ。アーデルハイトは紙片を恭しく受け取り、内容を確認した。俺はその肩越しからそっと盗み見る。
 ――指令。明後日夕刻迄に『生きてるナワ』を三つ用意し、ギルドまで参上せよ。
「どうかね? 今ならまだキャンセルをするという選択もある。全てはお嬢さん次第だよ。因みに、この模擬試験は期限内に物品を調達できるかを試すものだが、実際の依頼においては依頼人がいるということをゆめゆめ忘れぬように。著しく品質が落ちていたり、劣化している場合は、残念ながら評価を大幅に引かせてもらうことになる。依頼人との信頼で成り立っていることを決して忘れないことだ。いいかね?」
「……はい」
 念を押すようにワルデンが厳しい表情を作り、依頼を受けるにあたっての心構えを説く。俺も失敗を重ねたときは何度も怒鳴られたものだ。だがそのお陰で今の自分があることを決して忘れない。
 アーデルハイトが神妙に答えると、ワルデンは一転して「いい返事だ」と朗らかに笑い、節くれだった腕をさすった。
「それからもう一点。課題に取り組むにあたって、一人だけ補佐を付けることを認める……が、頼めるか」
 といって、俺を見る。俺はかまいませんよ、と言った。引き受ける義務はないが、断る理由もない。アーデルハイトは複雑そうな顔をしていたが、俺が意識を向けるとそっぽを向いた。
「それでは、チュートリアル始め」
「課題ってこんなに難しいわけ?」ギルドを出るやいなや、誰にぶつけるでもなくアーデルハイトが気弱な声を上げた。「生きてるナワなんてニ日で用意出来ないわよ。一つだけならまだしも三つもなんて」
 不満を隠そうともせず、ぷりぷりと彼女は言う。早くも出鼻をくじかれた、そんなニュアンスを多分に含んでいた。
 そういえば、俺の時は日没までに山中の小屋に住む隠居老人のところまで書簡を届けろという内容だったことを思い出す。その道中、盗賊らしき一団に追い回された時はどうなることかと思ったが。
「あんたは気楽でいいわよね。成功者の余裕なんか滲ませちゃってさ」
「別に余裕だったわけじゃないさ」
 ただ、と俺は心の中で述懐する。舐めてかかれば手痛い目に遭うのがオチだ。今思い返せば、ワルデンはその教訓を俺に叩き込ませたかったのだろう。未だにあの人を超えられる自信はない。かつては腕利きの冒険者だったらしいが、それも容易に頷ける話だ。
「というか、しっかり補佐してくれるんでしょうね」女は俺に振り返ると、疑わしげに眉をひそめた。
「仕事の分は、な」
 別に、この女がどんな失敗をやらかそうが俺の査定に直接響くというわけではない。ないが――
「遥々ここまでやってきたあんたが夢に破れるところを見せられたんじゃ、夢見が悪いんでね」
「へえ、あんたみたいな男でも心配してくれるんだ」
 意外とでもいいたげにアーデルハイトは片眉を上げる。それから、何を思ったのか口元をにやりと歪めた。
「あたしが失敗することによってノエルちゃんが悲しむ姿を見るのが嫌だからなんでしょう。わかっているわよ、何も言わずともね」
「はあ?」
「図星でしょう」
「…………」
 もう付き合っていられなかった。
「あ、照れてる。かわいい〜」
「馬鹿言ってないで、行くぞ」
「は〜い」
 アーデルハイトは広場を抜けるまで忌々しい笑顔を崩さなかった。
 中央通りの人いきれを避けるように、三叉路を東通りに折れて職人街を通り抜け、入り組んだ居住区まで戻ると、俺は尋ねた。
「それで、生きてるナワというのは何処に売っているんだ。普通のナワとどう違うんだ」
「あ、うん。多分ね、お店には売ってない気がするのよ」
「売っていない、というと」
「もしかすると、あたしが錬金術を使うことを織り込んだ上で指令しているのかもしれないわ」
 錬金術。またその言葉か。そんなに便利な技術ならば、何も悩む必要さえないのではないだろうか。
「あの人はあんたが錬金術士だということを示唆していた、ってことか?」
 ワルデンならあるいは、とも一瞬思った。そう思わされるほどの脅威をあの元・冒険者に感じていた自分に苦笑するほかない。きっと、いや、ただの偶然だろう。
「わかんない。でも、錬金術なら、もしかするとぎりぎり間に合うかもしれないわ」
「よし、なら早速家に戻って」
「ちょっと待って。一口に錬金術って言っても万能に全てが生み出せるわけではないということは知ってるわよね?」
 俺は首を振った。何しろ昨日まで錬金術の『れ』の字すら絵空事の世界だと思っていたのだ。今でさえ、俺は信じ切れずにいる。だが、最初出合い頭でぶつかったときに転がってきた、あの半円の球体――あれはまさか本当にマナスフィアだったのだろうか? とある物語によれば、世界に二つしかないという、選ばれた錬金術士だけが持つことを赦された古代遺物アーティファクトだ。きっとあれはよくできたレプリカだったのだろうと結論づけた。その物語では、その球体は絶えることなく光り輝き続けていたというのだから。
 アーデルハイトは錬金術についての説明を続ける。調合を行うには、決まったアイテムを掛け合わせなければならないこと、数量や容量はレシピを参照する必要があること、時にはよりよい品質の調合品を目指し、配分を微量ずつ変えていく労力を惜しまず試すこと、などを朗々と語った。不明な箇所もあったが概ねは頭に入った。
「というわけ。わかった?」
「つまり、生きてるナワを作るためには決まった材料が必要ということなんだな?」
「ご名答」
 誇らしげにアーデルハイトが小さく胸を張る。兎にも角にも必要な材料がわからなければどうしようもないので、一先ず家に戻ることにした。錬金術の書とやらを広げて目を皿のようにしている小娘の様子をしばし眺める。
 机に向かいながら長く伸びた前髪を鬱陶しそうに掻き分ける様に、何故か少女っぽさを感じた自分自身に戸惑う。
(何血迷ったことを考えているんだ、俺は)
 こいつはあの偏屈で変わり者なジェフの妹だ。それに、錬金術などという如何わしい学問を修めている。そんな女に色気もクソもあるものか。
 当のアーデルハイトはのんきに本から顔を離すと、
「そうそう、あたしのこと、ちゃんと守ってくれなかったらぶっ飛ばすからね」などと物騒な事をのたまう。
「もう爆発は勘弁しろよ」
 やっぱり、あれは俺の勘違いだったか。まったく、こいつに会ってからの俺はどうかしている。俺は壁に身体を預け、調べものが済むのを待つことにした。
 それから、数刻経っただろうか。アーデルハイトが堆く積まれた本から背を向け、深い溜息をつき、疲れた表情で天井を見上げた。漸く必要な材料が判明したらしい。アーデルハイトは、必要な材料を指折り数えていく。その中には店売りされていないもの――つまり、森で採取する必要があるものだ――も含まれていた。いい加減待ちくたびれていた俺は壁から身を離し、階下へ向かう。日が暮れる前に探索を終えなければ、厄介事が鼠算式に膨れ上がるばかりだ。まして、今日は女王聖誕祭。城周辺の警備を重点的に固めている分、どうしても周辺の森は手薄になる。そんなときに限って賊は喜々として現れるものだ。まるで、この国の腑抜けぶりを嘲笑うかのように。あるいは、魔物が夜におびき出されてくるかもしれない。七面倒くさい過程はなるべくなら御免被りたい。
「何をぼさっとしている。早く行くぞ」
 一応声をかけてやったつもりだが、反応がない。もう一度呼び掛ける。すると、アーデルハイトは眉根を寄せ、口を尖らせた。
「あんたね、こっちはレシピを捜し当てるのにすごく苦労したのよ? ちょっとは休ませなさいよ。それともあんたが一人で材料探しに行ってきてくれるのかしら。殊勝なことね、見返りなんて何も出ないわよ」
「阿呆か。誰のための課題だと思っている。そうか、お前の覚悟ってのは所詮その程度なんだな。随分と高い志じゃないか、錬金術士様とやらは」
「どういう意味よ」
「言葉通りの意味だが」
「もう一度言ってみなさいよ」
「何度でも言ってやろうか。その程度の覚悟なら、ギルドを目指すのなんかやめちまえよ。そのほうがお前にとっても、お前の兄にとっても分相応じゃないのか」
 売り言葉に買い言葉の応酬。ちがう言い方で矛を収めることができたのではないだろうかと思っても、もう遅い。今思い返せば、この女に僅かでも感情を動かされた俺自身に戸惑っていたのかもしれない。
 アーデルハイトは目を見開き、膝上で握った拳を震わせ、みるみるうちに顔を紅潮させていく。そして、椅子を横倒しにさせんばかりの勢いで立ち上がると、くぐもった声で呟いた。
「……次にお兄ちゃんのこと侮辱したら、あんたを殴ってやる」
「はあ? 俺がいつお前の兄を侮辱したと。似たようなもんだろ、研究も錬金術も。人間、向き不向きがあるってだけの話なんだが」
 乾いた音が耳朶を打った。ほどなくして、痺れにも似た痛みが左頬に広がる。
 アーデルハイトが俺の頬をぶったのだと気付いたときには、もう彼女は風のようにいなくなっていて、俺はもぬけの殻となった部屋を無感動に眺める他なかった。その一部始終を見ていたのか、ノエルが入れ代わるようにして現れた。
「兄さんが全面的に悪いです。アーデルさんに謝ってください」
 予想通りの言葉を、予想通りに浴びせ掛けた。
「謝る? 俺が? 何故?」
「アーデルさん、今にも泣きそうな顔をしていました。兄さん、家に来て間もない女の子をいじめるなんて人でなしのろくでなしですよ。わたしはそんな風に育てた覚え、ありません」
「俺もノエルに育てられた覚えはない。じゃあ、留守はよろしく頼んだぞ」
 いつものように、頭の上に手を置こうとすると、ノエルは嫌がるそぶりを見せた。我が妹ながら、感情の機微を読み取るのはとても難しい。俺は諦めてその場から立ち去ろうと踵を返す。すると、ノエルが服の裾を弱く引っ張った。
「兄さん」
 俺は足を止める。微かな抵抗を受け止めながら、妹が次に発する言葉を待った。息を三度吐き、とつとつと呟く。
「アーデルさんのこと、守ってあげてください。すごく努力して、ここまで来たんだと思います。だから、あんな言い方って、ないです。ないと、思います」
 真摯な訴えに、たじろいでしまいそうになる。ノエルがこんなに懇願する姿を見たのは、いつ以来だろうか。俺がギルドを志願すると伝えたときでも、ここまで食い下がってきた覚えはない。だとすれば、もっと昔――
 ああ……そうか。
 思い出した。
 幼少の頃、冒険者ごっこと称して霧の森へ妹と二人で探検に赴いたときのことだ。
 今より泣き虫で甘えん坊だったノエルの短く切り揃えられた銀髪がありありと目に浮かぶ。たしか自発的に誘ったのではなく、両親に無理やり言いくるめられて出かけたのだ。
 ――お兄ちゃんなら、妹を守ってあげなさい、と言われて。
 そのことを疎ましく思っていた俺はあれこれ理由をつけてノエルを森の中で置いてけぼりにしようと何度も画策したが、べったりとついてまわる彼女をどうしても振り切ることができないのが悔しくて……それで、嘘をついたのだ。
 ――お前なんか本当の妹じゃない、と。
 ノエルは大粒の涙をこぼすと、俺を振り切って森の奥へ走っていったが、そのときの俺は何を思ったのか、後も追わなかった。
 だから、後悔した。
 魔物一匹さえ追い払えない、自分の愚かしいほど矮小な力量に。
 引きちぎられた服の裾を押さえながら、いつまでも泣くことをやめないノエルを見て。
 ギルドの人間が来てくれなかったら、俺たちは魔物どもの胃袋に収まっていたかもしれないと思うと、ぞっとする。
 俺は照れ隠しに謝罪の言葉を口にして、夕陽色に染まるおかっぱ頭を掻き混ぜるように撫でていた。その時に、ノエルは俺の袖を弱々しく掴んで、鼻水を啜りながら言ったのだ。
 ――もう二度と独りにしないで、と。
 古傷のかさぶたを無理やり剥がされたような、むず痒い気分だ。俺は溜息を細く長く吐き出すと、背中で押し黙ったままの妹に、平板な調子を心がけて早口で言った。
「なるべく早く帰る。今度はうるさいあいつを連れてな」
 糸を引くような停滞の空気を振り切って、今度こそ俺はその場を立ち去った。
 大勢の市民でごったがえしている大通りを縫うように抜け、正門から市外へ。
 夕刻の森は、小動物の気配や葉擦れの音がそこかしこで鳴っているにもかかわらず、奇妙な静けさを保っていた。時折姿を現す老木に穿たれた“うろ”は、底知れぬ暗闇を思わせた。薄桃色の空が繁った木立に覆い隠されて視界を悪くさせるが、探し人は思いのほか早く見つかった。
 背丈の半分ほどある高さの苔むした岩の前にしゃがみ込んだまま、じっと動かない。しばらく様子を窺ってみるが、何か行動を移すわけでもない。このままでは埒が明かないので、近づき、真紅色の背中に声をかけようとする。
 しかし、一瞬早く気配に気づいたアーデルハイトは大げさに肩を震わせると、音の出そうな勢いでこちらを振り返り、立ち上がって、一歩後ずさった。
「…………」
 相手が俺だとわかると、寸刻の間、あからさまに落胆した様子で肩を落とすが、すぐさま眉間に皺を寄せ、拒絶の一言を鋭く吐き捨てた。
「何しに来たのよ」
 俺は両の手の平を上に向けて他意の無いことを示す。「見ての通りだが」
「ほっといて。あんたの助けなんか借りなくたって、あたしは平気よ」
 背を向けて、さらに奥へ進もうとするアーデル。手に持った籠の中は、空に等しい状態だった。時間を掛けた割には、望ましい成果が得られなかったのだろう。夕暮れに急かされるように苛立ちと焦燥を隠そうともしなかった。
「それじゃ、そういうことだから」
 待て、と俺が声をかけたときには、既に奴の後ろ姿は遠ざかっていた。小枝を踏みしめる乱雑な音が辺りに響く。
「……やれやれ」
 俺は後ろからその意地っ張りな背中を追うことにした。
 闇は既にそこまで迫っている。どうにか夜が訪れるまでに連れ戻さなくては――幸いにしてご丁寧に明瞭な足音を響かせてくれるものだから、こちらとしては見失わずに済むのだが。
 しかし、それは裏を返せばモンスターに襲われる確率を無闇に引き上げる愚行ともいえる。ここら一帯はもろに奴らの縄張りだ。領域を侵されれば躊躇無く襲い掛かってくることも予測できる。葉擦れ以外の物音にも十分に注意しつつ、獣道を進む。
「ん?」
 不意に、アーデルハイトの気配が消えた。いや、消えたのではない。匍匐全身をするようにうつ伏せになり、茂みの奥に手を伸ばしていた。そのうちに足をばたつかせて、うーうーと唸り声まであげている始末だ。
(何をやってるんだか)
 ちなみに奴も一応生物学上は女に区分されるわけで、スカートの下から何やら年頃の女が惜しげもなく見せてはいけない地帯が露になろうとしていた。クソ、仮にもギルドを目指すというのなら、ちっとはマシな格好をしてこいってんだ。
 その痴態を現在進行形で晒しているアーデルハイトの動きが、止まった。
 ピクリとも身動きしない。
 おい、とたまりかねた俺が声をかけようとしたとき――――
「ぷに?」
 茂みの向こうから、『魔物』が姿を現した。
 気配からして数は……三〜四匹。ぷにぷにと呼ばれる、全身がゼリー状で半円球の形をしたモンスターだ。群れをなして襲いでもしない限り、普通に戦っていればまず畏れる必要もない相手だ。警戒して損だったな。
 しかし。
「きゃああああああああああああああああああ!!」
「ぷに! ぷに〜!」
 “最弱”のモンスターを前にして、何故かアーデルハイトは場の状況に不釣合いな悲鳴をあげ、あまつさえ身をよじりはじめた。
「チッ、何やってるんだよこのうすのろはッ!」俺はアーデルハイトの両足首を掴むと、一気にこちら側へ引き寄せた。
「ちょっ、ちょっと、あんた、何して――いやあっ、ス、スカートが〜!」
「うるさい暴れるな大人しくしてろ」
 ぷにぷにごときで死にたいのかお前は。
「ふああああっ?!」
 すぽんっ。
「…………」
 ……なんというか、まあ。
 一先ずの危機は脱したが、他の召し物まで脱したようで。
 アーデルハイトは黙ってスカートを履きなおし、服についた汚れをゆっくりと払う。そして、例の強烈な睨みを俺に向けた。
「おいおいおい。礼を言われる覚えはあっても恨みを買った覚えは無いぞ、俺は」
「黙れ変態」手にした木杖で撲殺されそうな勢いである。「もう少し、もう少しで採れそうなところにあったのに、あの気持ち悪いモンスターとあんたが邪魔したせいで……」
「どうやら呑気にお喋りしてる場合じゃないようだな」
 俺は女の背後に意識を向ける。アーデルハイトが穿った茂みの隙間から、魔物たちが次々と潜り抜けようとしていた。
「え……?」
 その一匹がアーデルハイトの足元に、にじりにじりと這い寄ってくる。くそ、間に合わないか。
「ひゃあっ!!」
「そこから動くな」俺はサッシュに括りつけた短剣を素早く引き抜くと、彼女の足元目掛けて、投擲した。短剣は鈍い銀の軌道を描いて、敵の中心部に深くめり込む。ぷにぷには断末魔の鳴声を上げることなく、夕闇に溶けるように霧散した。
「下がってろ」女が後ろへ下がるのを見送り、懐からもう一本、護身用の小刀を取り出す。処刑台に上る死刑囚プリズナーの如く、次々と穴から這い出てくるぷにぷにどもに一刀両断の太刀を浴びせ、一掃した。最後のぷにぷにを倒すと、周囲は無気味なまでの静寂に包まれる。
 茂みのそばに落ちた得物を拾い収め、胸に凝った空気を一気に吐き出す。……慣れないことはあまりするものじゃないな。俺の刃には人助けをするためなどという大それた忠義心なんてない。俺らしくもない。ただ、目の前の“間抜け”が足手纏いだったから、緊急的措置を取っただけのこと。
「……も、もう、だいじょうぶ?」足手纏いがおずおずとそばに寄ってきた。「ふう、助かった〜! あんたって意外とやればできるのね。虫も殺さないような顔して」
「なあ」
「何よ、これでも一応誉めてあげてるつもりだけど? あ、でもさっきのことは許してないから。ま、あんたに人並みの誠意を期待するだけ無駄かしらね」
 まったく、百面相のようにくるくると表情を変える女だ。嫌味じゃないといえば嘘になるが、まあ、飽きはしないか。
「お前、錬金術の学校では基本的な戦闘学を習わなかったのか?」
「どうしてそんなことを訊くのよ」
「あんな雑魚も退治できずに、よく今まで生きてこられたな」
 全くもって不可解だ。そこらの餓鬼どもでさえ群れからはぐれたぷにぷにを寄ってたかって苛めていることもある。
 アーデルハイトは一瞬だけ目を見開くが、すぐに瞳を伏せて、穏やかな、それでいて寂しげな表情に変わる。沈みゆく光が彼女のまつげを美しく瞬かせた。「あのね、あたし、殺生は好きじゃないの。たとえ、魔物でも。だって、かわいそうじゃない? 何の罪もないモンスターの命を奪うなんて」
「魔物は、人じゃない」俺はやっとのことでそれだけを吐き出した。薄々感じてはいたが、軽い失望と諦めを隠せなかった。
「人じゃなくても、よ」
「ならば、お前は家畜を殺めて生計を立てている農家の人間にも同じことを言えるのか?」
「それとこれとは別じゃない」
「同じことだろう。生きていくためには先立つものが要る。そいつを得るために、仕方がないから牛や鶏を手に掛ける。俺も運び屋という使命を果たすために、障害として立ち塞がる敵を『仕方がないから』倒して進まなくてはならない。なにが違うというんだ」
「それは……そんなの、詭弁よ」語気が弱まる。女からみるみるうちに表情が失われていく。そうだ。覚悟のない奴に強制しているわけじゃない。わざわざ、こんな茨の道に足を踏み入れずとも、お前にはお前の成すべきことがあるだろう。勇者気取りのマントなんか脱ぎ捨ててしまえばいい。
「帰り道は暗い。気をつけて戻れよ」
「ま、待ってよ! どうしてそんなことあんたなんかに決め付けられなくちゃ」
 その時。暗がりから、何か――恐らくはヴォルフの種族か――の咆哮が轟いたような気がした。それに混じって、誰かの叫び声。
 まさか――――
 俺は声のしたほうへ叢を掻き分けながら慎重に進んでいく。
「ねえ、ちょっと!」
 アーデルハイトの咎めるような声がしたが無視する。望もうが、望むまいが、戦えない奴を連れていけるほど、俺自身に余裕はない。幼き日のノエルが脳裏に浮かんだが、すぐさま振り払った。
 気配を殺し、現場近くに身を潜める。森の奥深くには、粘りつくような空気と臭気が充満していた。用がなければ、なるべくなら長居するのは御免被りたい場所だ。しかし、ここまで来たらもう後には退けない。七面倒ではあるが、突如家に転がり込んだ歩く面倒よりは、目的が定まっている分、いくらかマシだろう。
 サッシュから抜き身の刃を取り出し、柄の感触を弄びながら、一点に意識を集中させた。
 獣の気配は一匹。複数でないことに一先ず安堵する。しかし、のっぴきならない状況ではある。ヴォルフの獰猛な唸り声が、この場の動物たちの気配を縫い止めているようにも錯覚する。その獣に一切の自由を奪われ、尻餅をついて、歯を鳴らしている男が一人。男は傍らに風呂敷包みの荷物を散乱させている。……おそらくはこの近くを通りかかった行商人だろう。その道中を飢えた狼に襲われ、ほうほうの体でここまで逃げ込み、万策尽きたのかもしれない。
 さて、どう出るか……。
 敵は目前の“獲物”に夢中のようで、外部からの接近者――すなわち俺のことには気づいていないはずだ。あるいは、気づいていたとしても、眼前の目標を狩ってから、ということか。
 俺は地面をまさぐり、手頃な大きさの石を二つ選び、拾い上げる。ぷにぷにの時のような余裕ぶった真似など出来ない。
 立ち上がり、振りかぶって、そのうちの一つをヴォルフに投げつけた。
「――――!」
 狼は身を素早く翻し、ギラついた眼を背後、つまり俺へと向けた。煌々とした両眼は、淀んだ闇の中にあっても、鋭利な輝きを失わずにいた。
 もう一つ手に残った小石を投げる。敵が俺の位置を完全に捕捉したようだ。開けた空間の中を行ったり来たりしながら、飛び掛る機を窺っているようにも見える。
 一触即発の睨視戦。先に痺れを切らしたのは――ヴォルフだった。
 口を大きく開き、エナメル質の鋭い牙を剥き出しにして、跳躍した。
 俺は横に大きく転がり、回避する。
 すぐさま敵は体勢を整えて、致命傷を食らわすべく、第二撃を放った。
 それを再び身をよじって避ける。
「クソッ」
 わかってはいたが、このままでは防戦一方の展開だ。僅かな隙を見つければ勝機があると踏んでいたが、予想以上に敵の動きは速く、力強い。おそらくヴォルフの中でも筆頭クラスの力を持つ魔物なのだろう。人間と獣、どちらが体力的に優れているか、火を見るよりも明らかだ。
 だが、と俺は萎えかかった気を引き締める。こいつは、こいつだけは俺自身の手で討ちたいという気持ちが沸々と湧いてきた。誰かを助けたい、などという大仰な理由ではない。ただ、自分のためだけに。超えられなかったあの日の呪縛を振りほどくために。
 俺は、克つ。
 護身用の小刀を素早く抜き、頚動脈を目掛けて抛った。
 案の定、奴は二度も同じ手に引っかかるほど愚鈍ではない。元いた場所から転がるように前に回避すると、その勢いのままこちらに突進して来た。
 しかしながら――それこそが俺の望んでいた挙動だ。
 勢いは増せば増すほど好都合だ。
 俺は両腕で短剣を突き出し、来るべき衝撃に備える。
 上手くいけば、少なくとも片眼に致命傷を与えられる――
 腕が痺れたかと思うと、全身が遥か後方に吹き飛ばされる。
 背中にじくじくとした痛みが広がる。小枝や小石が背中を擦ったようだ。
 悲鳴をあげる身体を無視して立ち上がる。まるで何事もなかったかのように周囲は深閑としていた。
 ……やったのか?
「あ――――」
 獣は無傷なまま、俺を睨み据えていた。
 手元から消えた短剣。
 それが、奴の“歯と歯の間”に挟まっている。
 狼はそれを吐き捨てると、
「――――」
 咆哮した。
 ゆっくりと、にじりよる。
 俺の手に、得物はない。
 少しずつ。
 心が絶望に染まっていくのを感じる。
 些か調子に乗りすぎたのかもしれない。
 森は戦場だ。戦場では“些か”が生と死を明確に分かつ。それを心のどこかで甘く見ていた俺の不手際だ。
 あの女に調子を狂わされたのも一因かもしれないな。今となっては、何もかも言い訳じみているが。
 ならば、受け入れよう。
 俺は、俺の業を。
 どうせ、“あの日”から俺の運命など知れたもの。それが少し早まっただけだ。
「てえ〜〜〜〜〜〜〜〜いっ!」
 どうせ……。
「よしっ、今のうちよ!」
 ……? どうも最近聞き慣れた騒がしい声がするような。幻燈機ファンタズマゴリアならもっとまともな奴を登場させてくれ。
「何やってんのよ! あんたよ、あんた!」
「あんた……?」俺は幻影に返答した。馬鹿馬鹿しい。
「早く、逃げなさいって、言ってんの、よ!!」
 手が乱暴に捉まれる。意外と細くて、小さな腕だ。もしかしたら妹にも匹敵するくらいかもしれない。
「……ノエル」つい口に出してしまった。
「こんな時にシスコンはいいから! 早く! あとそこの人も!」
 眼前にはあの、悪い意味でよく目立つ、こいつの細い身体には不似合いな、真紅のマント。
「アーデル、ハイト?」
「何ぼーっとしてんのよ! いくらあたしが足止めしたっていっても効果は長く続かないんだから」
 靄のかかった意識が覚醒する。そうだ、
「あの狼は!?」
「だから、いま封じ込めてるの! あたしの話、聞いてた?」
 アーデルハイトの言っている意味がよくわからず、無意識のうちに背後を振り返った。
 そこには。
 氷漬けになったヴォルフが今まさに飛び掛らんとする姿勢のまま、彫像のごとく、凝固していた。何らかの異常な出来事でもなければ、この現象は説明できない。
「嘘だろ」
 思わず、そう口にしてしまう。アーデルハイトは俺を振り返ると不満げに溜息を漏らしたが、一転、得意満面の笑みを見せる。ああ、こいつでもこんな顔できるのだな、と一瞬魅入られそうになってしまった自分を殴ってやりたい。
「ま、あたしが本気を出せばざっとこんなもんよ」
 アーデルは右手に木杖を握ったままだった。その先端のガラス球が、煌々と中天で輝く満月に応えて光ったような気がした。
 ――これにて、任務完了!

「してねーから」
 誇張を交えた武勇伝をひとしきり語り終えたアーデルハイトの頭を小突く。
「ちょっ、何すんのよ! 乙女の頭を気安く叩くなんてサイテーよサイテー。ねえ、ノエルちゃん」
 アーデルは対面に座るノエルに同意を求める。ノエルは微笑を返すのみだった。
「あのだな、お前は一つ重大な事を忘れている」
「何よ。もしかして本職のあんたを助けたから、特別ボーナスが出るってこと?」
「阿呆か。お前、まさかとは思うが……チュートリアルの内容、忘れたわけじゃないよな?」
「そんなの錬金術を使って…………」
 奴の顔が彫像のように固まる。
「あーーーーーーーーーーーーーーーー!」
「やっと気づいたのか、このバカは」
「バカバカ言わないでよ、このバカっ! ていうかバカと言ったほうがバカなのよ!」
 なんだその餓鬼の理屈は。
「え、ええと……恩赦は?」
「ねーよ」
「特別補習、とか?」
「ここは学校じゃない」
「てへっ☆」
「媚びても無駄だ」
「じゃ、じゃあどうすればいいのよぉ〜〜〜〜」
 期限は今日の夕刻まで。今がまさにその夕刻。材料も揃ってない。調合もろくにしていない。おまけに当の本人は窮地を救ったという武勇伝の味が忘れられない様子。何十回同じ話を聞かされたことか。いい加減耳にタコができそうだ。
「知るか。ちゃんとワルデンさんに誠心誠意をもって謝る事だな。いい加減な気持ちだとあの人も容赦しないかもな」
「……薄情者」
 と、誰かが扉をノックする音が聞こえた。
「はい」ノエルがすかさず席を立ち、客人のところに行く。全くよく出来た妹だ。
「兄さん」客人と二言三言の短いやり取りを終えたノエルが戻ってくる。腕の中に見知らぬ布袋を抱えていた。「お届けものだそうです」
「届けもの?」さて、何か雑貨屋に注文したものなどあっただろうか。半信半疑のまま受け取り、包みを開ける。すると、一枚の便箋がひらりとすり抜けて、落下した。
 拾い上げて、文面に目を通す。
 …………。
「おい、アーデルハイト」
 机に突っ伏したままの頭をこつんと弾く。「ふえ……? 何よ、もう」
「俺は《ラズベルグ》に顔を出すから、お前は錬金術の準備をしろ。大至急な」
「えっ」

 数週間後――――
 アーデルハイトは兼ねてからの希望通り、晴れてギルドの一員となった。とはいえ、今はまだ駆け出しの身。準構成員として、物品の調達補佐を請け負っている。
 あまり楽しいものでもないだろう、と聞くと、そうでもないわよ、と例のポジティブ全開の答えとともに、あの眩しい笑顔。あの前向きさなら、いずれ一人立ちする日も遠くないだろう。そのときまで。仕方がないから見守っておくことにする。放っておいたら何をしでかすかわからない危険人物だしな。ただし、俺が今の仕事に飽きたらその限りではないが。
 錬金術が未だにどんな原理なのか、俺にはおよそ見当もつかないが、奴のような錬金術士なら、世の中を悪しき方向に曲げることもないだろう。そんな風に思うようになるとは俺も焼きが回ったかもしれないな。
「ねえってば」
 不意に、杖で頭を叩かれる。
「何だよ」
「あたしたちはさ、この術のことを錬金術って呼んでるけどさ」
 ああ、そういえばそんな話をしてたな。
「もし、もしもよ? これに名前がついていなかったら人々はなんて呼んでたのかな、って思うのよ。魔法? そしたら、あたしは魔女か。あははっ、魔女って何かかっこいい響きよね」
 こいつ――アーデルハイトは自然に笑うようになった。いや、これが彼女本来の性格なのかもしれないが。なんにせよ、顔を合わせるたびにむすっとされても面倒くさいだけだ。
「で、もっと未来になったら、錬金術って名前も方法論ももっと単純になってて、それが当たり前の世の中になってたりしてね。ってそれは考えすぎか」
「さあな」
 俺は嗤う。先のことなど、先に考えればいい。今あるのは、今だけだ。
「やっぱり、名前って大事だと思うのよ。あたしにはアーデルハイトなんて大仰な名前がついちゃってるけど……。名前がないと不安になるって言うか、なんていうか、その、わ、わからないものって、何か不安じゃない?」
「名前なんて、ただの記号に過ぎないだろ」
 もし、彼女の使う錬金術がもっとふざけた名前だとしても、やはり未知の現象に畏れと疑念を抱くはずだ。ワルデンは難なく受け入れていたが……やはりあの人は只者ではない。
「あのね、その、い、今更かもしれないんだけど」アーデルハイトは照れくさそうに顔を赤らめている。「き、訊いてもいいかしら」
「なんだよ、気持ち悪いな。聞きたいことがあるのなら、すぱっと言え」
「な、何よその言い方っ」
 久方ぶりに見た気がするな、その膨れっ面。
 一陣の風が吹きつける。赤いマントが青い空に翻った。
「名前よ! あんたの名前!」
 慌てて肩を押さえるアーデルハイト。
 そうか、言い忘れていたな。なるべくなら名乗りたくはなかったが。
 俺は女に背を向けて歩き出す。指定した場所に依頼人がいた。依頼人は俺たちを見つけると遠慮勝ちに会釈した。
「待ちなさいよ〜〜!」
 俺の名前はジャック――しがない運び屋ベクターだ。ま、察しのいいあんたのことだから、そんな些末事など風が吹けば忘れてしまうことだろうよ。

/了(11.9)
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