無意味な退屈は人を腐らせるにはうってつけである。
 多くの場合、それは無益、無味乾燥、無感動の結果をもたらすだけ、ありていに言えば『徒労』だ。
 しかし、彼にとってのそれは決して無意味な代物などではなく、それどころか退屈を埋める思索という行為そのものが、彼自身の想像力を豊かにし、また、ある種の優越感を得るための最短手段であることを信じて疑わなかった。
 退屈さえも有意義な時間と信じ込むというのは、言うなれば一種のポジティブ・シンキングなのかもしれない。あるいは悟りの境地か。少なくとも悲観的になるほどの決定的な理由を彼は持ち合わせていなかった。
 一陣の、肌を刺すような風が薙ぐ。ヘッドライトが目蓋を焦がし、右から左へと滑るように通過していく。銀色のセダンは水しぶきをあげながら、凸凹の路面を鈍く鳴らしていった。泥水が跳ね、全身に降りかかるのも構わず、男はデジタルの表示盤に目を落とし、もうすぐ終わりかとひとりごちた。
 安物の腕時計の短針はまもなく四をさすところだった。
 くるみを握るように手の中で数取器を転がしてから、カウントを確認すると、〇一九七と表示されていた。
 真夜中の幹線道路は交通量が少なく、ともすれば睡魔との闘いとなる危険性も高いのだが、彼は――『生憎』と言うべきか、『なるべくして』と言うべきか――夜型人間だった。
 それに、例の思考癖とも言える習慣が彼にとっての強みだった。
 人間は考える葦である、とパスカルは言ったが、彼はそれを体現していた。職務怠慢だと多くの人間は彼を非難するだろう。しかし、彼の職務はまさに「それ」なのだ。
 通り過ぎる車両の台数を逐一チェックし、帰り際に責任者に業務報告の後、数千円の日給をもらい、帰途に着く。本当にそれだけなのだ。
 それでも、彼は責任と自覚を持ってこの業務に臨んでいる。その甲斐あってか、猫の子一匹見逃さないほどの集中力と観察力も、しぜん研ぎ澄まされていった。
 こんなに楽で、その上自己を鍛練できる仕事はない、と彼は思う。
 それは若さ故の怠慢かもしれない。ましてや、老いてまで従事できる業務とも思っていない。それでも、いつまでもモラトリアムにかこつけて何もしないでいるよりは幾分か気が紛れる、そう信じて止まないのだ。
 ふと、横殴りの強烈な雨風が吹き付ける。支給品のウインドブレーカーがはためき、細かな雨粒の群れが視界を曇らせた。
 大型のトラックか、それとも定期巡回中の清掃車か。
 彼は、数取器を反射的に右手に宛がうと、目を擦り、突風の吹きつけた方向を見遣った。
 だが、そこには彼の想像とおよそ異なる光景があった。
 少年がいた。
 年は中学生くらいだろうか。傘も差さずガードレールにもたれかかって、人待ち顔をしていた。遠目からなので判然としないが、少年と呼ぶにはあまりに中性的な顔立ちをしていたので、もしかすると少年ではないかもしれない、とも彼は思った。
 背は小柄で、白いジャケットにスキニーのジーンズ、何より首に巻いた真紅のマフラーが印象的だった。
 男は、少年について何の気なしに思いを巡らせてみることにした。
 家出か、夜遊びか、はたまた夢遊病か、そういった類なのかもしれない。いずれにせよ、彼がこうした現場に居合わせる事は初めてだった。
 だからかもしれない、俗な言葉で興をそぐという愚かな真似はしたくはなかった。「やあ、こんなところで何をしているんだい」なんて定型句などもってのほかだと彼は考えた。どうせならエスプリを効かせた一言がいい。不可思議な状況で不可思議な挨拶を交わす、その可笑しさに不謹慎にも彼の口元は緩みそうになった。
 男はゆっくりと近づく。しかし、少年が気配に気づく様子はなかった。
 結局「なあ、そこの少年」と何度か声をかけたところで、やっと男の存在に気づいた。
 間近で改めて眺めると、端正な顔はまるで陶器でできたようにすべらかできめ細かな肌をしていた。
「ボクに何か用なの?」
 見た目に違わぬハイトーン。まだ声変わりもしていないようだ。
 男はウインドブレーカーを脱ぐと少年に差し出した。
 少年は素直に礼を述べて受け取ると、男を物言いたそうな眼で見上げた。
「俺は、ここで仕事をしているんだ」
「それはどんな?」
「ただ通り過ぎる車の台数を数えるだけの、単純な仕事さ」
 男は、ニヒルに笑った。
「その仕事は楽しいの?」
 少年は、興味深そうな目をして尋ねる。
「さあな。人によっては退屈かもな。俺は嫌いじゃないけど」
「ボクも退屈は好きだよ」
「もしかして、さっきまでそこにいたのは退屈を楽しみたかったからなのか。お互い退屈者どうしだな」
 と言うと、少年は寂しそうに顔を伏せた。しかし、それも一瞬のことで、すぐに曖昧な笑顔を浮かべた。
「ねえ、お兄さん。お兄さんはボクのこと、どんな風に見えたの。やっぱり、悪い子だと思う?」
「そうだな。事情はわからないが、少なくともキミはよい少年ではないということだけはわかる」
「そっか」
 少年は小さく舌を出して、今度は確かに笑った。
 しばし、沈黙が流れる。雨音が沈黙を埋めるようにしとしとと降り続いていた。
「ねえ、お兄さん」
 持ち場に一旦戻ろうとしたところで、不意に少年が口を開いた。 
「お兄さんは、ほんとうに退屈が好きなのかな」
 男は面食らった。まるで心の奥底を見透かされたような心地だった。思索の好きな彼が唯一考えないようにしていた領域にいともあっさりと踏みこまれたことが意外であり、不安でもあった。
 言葉をしぼり出そうとしたが、結局飲み込む。
「あ、無理に答えなくてもいいよ。ただ、そんな風に見えたから」
 少年は朗らかに言う。そして、じっと男を見つめると、ふと思い出したかのようにポケットをまさぐり始めた。
 中から透明の小さなビニール袋を取り出すと、今度は少しはにかんだ表情で言った。
「だから、ボクがお兄さんの退屈を紛らわせてあげるよ」
 言葉の真意がつかめないまま、少年をぼんやりと眺めていると、彼はこう続けた。
「うまく出来ているかは自信ないけど、きっと効果は絶大だよ」
「なんだ、それは」やっとのことでそれだけを言った。
「これは時間旅行のできるビスケットだよ」
 と、彼はいたずらっぽく言う。
 少年が見せてくれたビスケットは一見何の変哲もなかった。強いて特徴を挙げるとするならば、外袋には商品名などの一切の印字がなく、また、それぞれのビスケットの形がアルファベットを象ったものであるという程度だ。信じるつもりは毛頭なかったが、ここはひとつ乗せられてみるのも悪くないと男は思った。少年のあどけない笑顔を退屈に塗り替えてしまうことが、今はひどくためらわれた。
「ひとつ見せてもらってもいいかい」
「なんなら食べてもいいよ」
 ほら、と難なくビニール袋を開封して差し出すので、一枚適当に選んで取り出してみた。
 手に取ったビスケットを男はつぶさに観察する。
 そのビスケットは“B”の形をしていた。大きさは三センチ程度。焼き具合は市販のものとまるで変わりないように見える。
「これで退屈が紛れるのなら安いものだな。もしかして全部食べたら俺だけ爺さんにでもなったりするのかね」昔話を想起しながら、男はいった。
「正確に言えば、退屈そのものを意識しなくても済む効果があるとでもいえばいいのかな。べつに悪いものが入ってたりなんかしないよ、といったらボクなんかは逆に疑いたくもなるけどね」
「墓穴を掘ってるじゃないか」
「まあ、ボクが毒見をする様を見ててよ」
 少年は袋からビスケットを何枚か取り出すと、一気に頬張った。
 そして、爽やかに微笑んでみせる。その笑顔は通過していくハイビームの眩しさに負けないくらいだと思った。
 その笑顔に気圧されるのは必然だった。男はやっとのことでビスケットを口に運び、ゆっくりと味わうように咀嚼する。やはり、市販のそれとちがいがわからないのだが、そうでなければいいと今だけは祈るような気持ちが芽生えていた。置き忘れていた何かが胸の内を満たすようだった。
「そうそう! 大事なことを訊き忘れてた。お兄さん、そのビスケットにはなにが刻んであったか覚えてる?」
 少年の顔は、いやに真剣味を帯びていた。だから、真剣に返すべきだろうと思い「たしかBだったと思う」と答えた。
「本当にそれは“B”だった? 正真正銘、絶対、断固として、間違いなく“B”だった?」
 やけに念を押して訊くものだから、男は戸惑った。なにか重要な意味が込められていて、見落としをしたのではないかと不安になる。
「“B”だと何か不都合なことでもあるのか」
 少年は一拍間を置くと、答えの代わりに空を指差した。つられて男も曇天を見上げる。
「人はね、お兄さん。常に埋めるために生きていると思うんだ」
 男は呆気に取られながら続きの言葉を待った。細かな雨が両眼に入り込んで反射的に視界を閉ざす。伝う雨に答えが紛れていたら、どれだけ人は苦しまずに生きていられるのだろう。
「退屈を埋めるための思考。無知を埋めるための固有名詞。時間を埋めるための記憶。心を埋めるための思い出。みんな、補完している。『空白』が怖いから、空白をなかったこと、もしくは見なかったことにしている。でもね、その代替物は永遠じゃない。いつかは自分の中からこぼれ落ちてしまう、そんな、曖昧で不確かで不鮮明で不安定なもの。そんなものに脅えるのが怖いから、また、埋めなおす。埋めて、埋めて、こぼれ落ちて、また埋めなおす。そうして、人は価値観をどんどん年齢相応に合わせていく」
 ふう、と一息つく。横目でそっと盗み見ると、その横顔はどこか大人びた哀愁すら漂わせていた。まるで、はるばる時間旅行をしてきた時間旅行者のような重みを背負っているかのようだった。
「お兄さんが食べたビスケット、本当は“B”じゃなかったのかもしれない。ひょっとすると、そういう先入観に囚われていたから、そう見えたのかもしれないよ」
「まさか」
「そんなはずない、と言い切れる? 『ない』という証拠はもう『ない』のに」
「よくわからない」
「ごめんなさい。年上の人を困らせたらダメだよね。本当に悪い子だ、ボクは」
 少年は自嘲気味に呟いた。
「でも、お兄さんとボクがこうして合えたのは、きっとそういうことなんだろうね」
 視線を戻す。少年は静かに首を振った。それから、もう一度明け方の空を見上げると、ことさらに明るい声色で、
「退屈を退屈で埋めたってね、何もいいことなんかないと思うよ。ボクが言うのもなんだけど。それより、ビスケットおいしかった? これ、ボクの手作りなんだ。まだまだ練習中だけどね。よかったら全部あげるよ」
 少年は頬をわずかに染めて笑った。別れの気配は刻々と近づいていて、少年を誰何しなければいけないような気がしていた。
「少年。君はいったいだれなんだ」
「あのね。ボク一応『少年』じゃないんで」
 早口で言うと、ウインドブレーカーを脱いで突っ返した。それから、身を軽やかに翻して、元気よく手を振った。その動作に呼応するように真紅のマフラーがなびく。
 雨はいつの間にか上がっていて、その姿は朝の光に溶けるようにして、遠ざかっていった。
 あっけにとられたままの男の手には、ビスケットの袋が残されていた。
 カウントは〇一九七のままだった。

(了/08.12 12.01改訂)
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