黒い球体

 私の妻が蒐集癖のある好事家だと気づいたのは、籍を入れてからしばらくしてのことだった。旅行土産には一風変わったものばかり選ぶので、趣向あるいは感性のちがいと半ば納得していたのだが、家財道具一式が新居に運び込まれたとき、その認識を改めなければならないようだった。
 これはなんだ、と抽象的な風景が描かれた水彩画を手に取って訊けば、名も無い画家の名前を挙げ、大事な部分は絵ではなくむしろ額縁のほうだと胸を張って言う。今度は蛇と犬を融合させたような形状をした木彫りの置物を指差すと、あれは風水の観点から重要な意味を持つのでむやみやたらに移動させないで欲しいと謂れのない注意を受けた。妻の寝室は、アッという間に珍妙な物品の数々で埋め尽くされていった。
 ある日のことだ。私が帰宅するとテーブルの上に夕食はなく、代わりに一際珍奇な球体が置かれていた。妻はにこにこと笑い顔を浮かべていたが、私は気が立っていたので、つい「こんなものを集めて何が楽しいんだ」と刺々しい態度で接してしまった。けれど、妻は笑みを崩さずに、触ればわかるの一点張りだった。異彩を放つ球体と妻のギャップに、体の芯から冷えていく心地がした。
 球体は何処から眺めても漆黒色で、光沢もなく、意識して見つめなければその空間自体が無そのものではないかという錯覚に陥る。大きさは丁度ボウリングボールのそれと同程度で、どこかに指を差し入れる箇所があるのではないかと疑って面を回転させると、案の定、親指が入りそうなほどの穴が一箇所だけ空いていた。けれど、一箇所だけではボウリングには不適格なので、不良品ではないかと考えた。好奇心は猫をも殺すとはよく言ったもので、場を支配する漆黒にすっかり呑まれた私は、少しだけなら、と穴の中に指を差し入れようと慎重に埋め込んでいった。
 すると、とぷり、とでも形容すればいいだろうか、液状の何かが指を包み込む気配がした。人肌程度の温かさのそれは、私の好奇心を奥へ奥へと引きずり込むには充分すぎるほどだった。第一関節から第二関節、付け根、手首、腕、肘、上腕、肩、胸、頭、上半身と、すっぽり形を合わせて受け入れる黒い球体の中に、私の存在は包まれていく。爪先まで侵入すると、水の中を漂うように、私の体が水面に浮いた。このまま猶予っていられるのならばそれもいいかもしれない、と思考さえも弛緩していくようであった。
 眼を閉じると、変わらず黒だけがそこにあり、急速に意識が一点に収束していく。妻の裸身がすぐ傍にあった。どうやら球体に触れた後、疲れきっていた私は眠りに就いていたらしい。妻は、あの球体からはマイナスイオンが発されていると言って、腕を回し小さく笑んだ。けれど、肌を重ねても私は彼女の本質を理解できず、遂に肉体の枷を越えることはできなかった。知れば知るほどわからない部分が増えていくようだった。今までの私は外側の鍍金だけを見て、妻を知ったつもりだったのかもしれない。

/了(12.1)
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