七回裏、代打、ドルフィンキック

1.

 僕は、ついぞ知ることがなかった。
 親や兄はおろか、恩師にも、今までに出会った友人の誰一人にだって言われたことがなかったし、自分でもそのような認識を持ち合わせたことなどなかった。
 それなのに――
 同じ姿勢を取り続けることに疲れた僕は、フローリングの床に仰向けになる。エアコンの風が足元にちょうど当たって心地よい。
 飼い猫のでんすけが僕の頭の上らへんに近寄ってきて、べったりくっついてくる。意味もなく点けておいた十四型テレビデオの中ではどこかの高校生たちが炎天下の中、野球をしている。チアガールたちの応援にも熱が入っている。汗の一粒一粒まで届きそうだった。
「だからさ、まずは行動だと。そう思わないか?」
 受話器越しに耳障りで甲高い男の声が響く。時折それに混ざって、ホイッスルの音や誰かの怒鳴り声が遠くから聞こえるのは、練習の合間を縫ってわざわざ電話をかけてきているということだろう。しかも、彼の中ではもう話が先に進んでいるようだ。「というわけで、明日十時に市民プール前な。それじゃ!」あまつさえ、勝手に約束時間を設定してしまう始末だ。
「ちょっと待った」
「なんぞ」
 行動の話とプールといったい何の関連性があるのさ、と問い詰めたくもなったが、どうせこの男のことだ。適当にはぐらかして、どうしても僕を説教する方向に持っていくつもりなのだろう。
「僕、高校のとき水泳の授業がなかったから、水着ないんだけど」
「買えばいいやん」なんとも単純明快に切り捨てる。
 おお、と歓声があがった。快音が 響いたかと思うと、白球があれよあれよとスタンドに吸い込まれていく。水色のポンポンの波が激しく揺れている。マウンド上のピッチャーが肩を落とし、うなだれているのが相対的に目立った。
「それとも、あれか? 腹出てるのが恥ずかしいから着たくないんか? それはセレクトショップに入る服がないから、恥ずかしくて入れないのと同じ理屈だぞ? だいじょうぶだって。誰もお前なんか見てないし」
 この男は、意識して僕が見ないようにしている部分をついてくるのが、憎らしいほどに巧い。それでも、小馬鹿にした調子を微塵も見せないから、一応は信用してもいいと思っている。思ってはいる、けど。
「買わなきゃ、な」僕は半ばひとりごとのように呟いた。
「ほら、また出た」彼が鬼の首を取ったように非難の声をあげる。「マストは行動が伴わなきゃ説得力に欠ける、ってさっき俺が言ったばっかりやん。そういうのが狡猾い、ってこと。しっかりしてくれよミキティー」
「だから、ミキティーはやめてくれよ」男につけられる仇名としては不適切だし、なんだか負けた気分になる。
「ミキティー、がっつけ。草ばっか食ってないで肉も食え。エコなんてくそくらえだ」
 どさくさに紛れて不穏当なことを吐き捨てていたような気もするが、聞かなかったことにした。
 それから曖昧な生返事を二言三言返して、僕は電話を切った。
 両手を広げて大の字になる。
 白い天井にきつい日差しが反射して、どうにもまぶしい。送風音と壁掛け時計の音と応援団の歓声が心地よく耳朶を打つ、昼下がり。できれば、このまま無目的にのんべんだらりと過ごしてしまいたかったが、時間と予定は待ってはくれない。誰かの時間を盗めば、必ずツケとなって戻ってくるのだ。楽は苦の種、苦は楽の種、とことわざにもある。
 そんな僕を知ってか知らでか、でんすけのしっぽが、僕の頭をさわさわと撫でるように動きまわるので、僕は起き上がると成猫の頭の上に手をやった。
 試合は、先ほどホームランを放った高校が圧倒的大差をつけて、なおも攻撃を続けている。ピッチャーは今にも泣き出しそうな表情で、インコース高めに力ないストレートを投げて、またも痛打された。判官贔屓の僕は、ひどく悄気ている彼に心の中でがんばれ、とエールを送った。
「みゃあ」
「こらっ、僕の指を噛むんじゃない」でんすけが僕の右手をざらりとした舌で舐めながら、臼歯で軽く噛みつこうとしてきたので、しっしっ、と押し返して、追い払った。まったく、変な癖がついてしまったものだ。
 少し離れたところから、なおも未練がましく僕をじっと見つめる雑種猫を眺めながら、思う。
 そうか、こいつも肉食か。
 山田の言うとおり、僕はずるい人間なのかもしれない、と水着をショッピングセンターで購入してから、アルバイトに向かう道すがら、改めて思った。
 これまで、何不自由なく生きてきた。勉強も、運動も人並み程度にはできたし、友達も少ないながらそれなりにいる。高校時代、オーストラリアに海外研修へ行ったことは今の自分を形成する重要なファクターだと信じている。ホームステイ先の一家とも四苦八苦しながら仲良くなれた。大学も私立ではわりと名の通ったところへ入学できたし、就職率も結構高いほうだと、先輩から風の噂で聞いた。けれど、僕には重大な欠点があった――いや、ある時点まではそれを重大な欠点だと自覚したこともなかったし、またそれさえも時間が解決してくれる他者とのささいな差違に過ぎないと考えていた。
 だけど、僕が、彼らと決定的に相容れぬ存在であるという純然たる事実をいやというほど突きつけられて以来、僕はどうしようもない疎外感と共に悟ったのだ。時間は人の欠落を埋めるようにはできていない。結局は自分自身だけが埋め合わせることができるのだ、と。夜に横たわる深遠なる闇よりも昏く淀んだ絶望を、想像だにつかない艱難辛苦をもって乗り越えなければならないのだ。
 そんな資本主義の敗者たる臭いを嗅ぎつけ、馴れ馴れしくもぬけぬけと僕の傷口に塩を塗りこむ男が、山田だった。山田とは同じゼミで、同じアパートで、同じ誕生日だった――偶然にも。けれど、僕と彼の間には決定的な相違があった。もちろん、これは僕だけが感じている相違で、山田にとってその限りではないのだろう。だからこそ、山田は僕に期待をしているのだ。誰もが練習さえすれば自転車に乗れるという、いかにももっともらしい理屈で。
「出会いがなきゃ出会いを作るしかないだろ」ゼミの時間中、山田が声をひそめて言った。それから講義室内を舐めるように見回して、何人かの女子学生の後姿を指差し、口元を歪めた。「あの辺なら、お前でもいけるって。終わった後、ノート見せてとかレポートどうしてる? とか訊きに行けよ」
 僕は、難色を示す意味で、首を振って専門書を読み耽るふりをした。でも、にわか仕込みの防衛策なんかじゃこの男には通じない。
「ミキティーさんよ。何で挙動不審なん? 別にやましいことしてるわけじゃないんだからさ。今時、中学生でもそこまで初心じゃないぞ」
「ほっといてくれよ。というか、教授に睨まれたぞ! 今」講義室の後ろでぼそぼそとやりとりをしていたが、室内が静まり返っているばかりか、受講生は数えるほどしかいないので、僕らの小声はばれていたようだった。斜め前に座っていた女子(申し訳ないのだけど、顔はなんとなく記憶していても名前が思い出せない)がこっちをちらりと見て、くすくすと笑っていた。耳と顔が熱い。早く切り上げてほしい一心で、僕は携帯を盗み見ることにした。
 出会いがなきゃ出会いを作るしかないだろ、というのはもっともだ。喉が渇いたら水分を補給すればいいだろ、というくらいしごく当たり前な欲求だから、文句のつけようなんてあるはずもない。
 ただ問題なのは、それほど僕の喉は渇いていない、ということに尽きる。
 中高一貫制の男子校に通っていた僕には、女学生と学校生活を送る、という光景がしっくりこないのだ。野球で例えるなら、利き腕の使用を禁止されて、スリーアウト制を突然ワンアウト制にされたような感じだ。だから、自由を謳歌できるキャンパスライフには、ひどく気後れした。なんというか、まぶしすぎるのだ、何もかもが。浦島太郎が竜宮城から帰ってきたときの気持ちがわかるような気がした。
 もし、入学式の日、たまたま隣の席にいたいかにもスポーツマン風の学科生に話し掛けず、たまたまビラを配っていたいくつかの小規模サークルに顔を出さなかったら、と思うと、ぞっとする。
 ちなみに、いかにもスポーツマン風の男というのが、山田である。彼とは実に三年の付き合いになっていた。所属しているサークルがちがうので一時期は疎遠になりかけたけれど、受講している講義が被ることが多いせいか、ノートやプリントを貸し借りする関係だけは細々とつづいていた(おもに貸すのは僕だったが)。
 二年に進級し、同じゼミ生になってからは、また会話をする機会が増えて、そのうちに流れで遊びに誘われるようになったのが、去年のことだ。ちょうど、山田が僕の部屋の隣に引っ越してきた時期とも一致する。
 ――閑話休題。
 僕の欠落は時間とともに露呈していった。はじめは、ささいな違和感だったのだ。それが、イベント、具体的には、新入生歓迎コンパ、定例会、期末試験、文化祭と進むにつれ、表面に姿を現すようになる。
 はじめは錯覚だと思ったのだ。でも、次第に同回生の連中がよそよそしく、そわそわした態度を取るようになり、定例会でもある種張り詰めた異様な空気を醸し出すようになる。これはいったい何があったんですか、と最も面倒見のよく、誰にでも優しい小太りな先輩に訊ねてみたところ、「ああ、あいつら別れたらしい」と、さらっとどうでもよさそうに言うので、僕は「別れる」の意味するところをしばし考え込んでしまった。それからやっと、ああ、と自分でもよくわかる実感に乏しい驚嘆がもれた。別れる、とか付き合う、とかあまりにも自分自身からほど遠い言葉が矢継ぎ早に先輩の口から飛び出すのを、僕は、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で聞き流すだけだった。
「別に、女性と会話をするのに抵抗があるというわけじゃない」と反抗したこともある。
 あれは、確か去年のクリスマス・イヴのことだ。実家に帰省もせず、何の予定もなく、アパートでくさくさしていた僕に、山田は何が楽しいのか、ニヤニヤしながら、言った。「暇なら、野郎で集まろうぜ」
 狭い1DKに集まったのは三人。家主と、僕と、もうひとりは、顔はなんとなく知ってるが、話したことのない男だった。バスケ部の後輩だ、と紹介されると、ああ、となんとなく合点がいった。細身で、整った顔立ちの彼がどうしてこんな日にこんなところで、と訊くと、つい先日こっぴどくフラレたらしく、山田のおごりという言葉につられて、ホイホイとついてきてしまったらしい。
 ダース単位で空ける勢いで缶ビールを浴びるように飲み、深夜の定番番組で笑い転げていた僕らは、二人の恋愛遍歴の話を経て、僕への説教話に移行していった。
「じゃあ、なに? 女の子には興味ないわけ? 嘘ばっかりついてんじゃねえよ」
 山田は酒の勢いもあって、執拗に絡んでくる。後輩は、そんな僕らを見て馬鹿笑いをするばかり。「それともあれか? 今流行りの……草食系男子ってやつ? お前、そんなのなってねえよ。男の恥だぞ? 草食系とか明らかに揶揄されてるだろうが」
「だから、興味ないんだって」僕も負けじと反論するが、どうせこの男を止められることなどできやしない、と半ば諦めていた。
「絶対嘘やん」山田はアルミ缶を握りつぶし、僕を指差して断言する。「まだ、諦めんなよ。俺ら、これからだろ。社会人になったら余計出会いがないらしいぞ」
「エノさん、職場にはジジイしかいないって嘆いてたっすよ」後輩が口を挟む。
「あれ、エノ先輩って警備員になったんだっけ? おら、飲んどけミキティー」と山田は冷蔵庫から梅酒を取り出すと、近くに転がっていたグラスになみなみ注いで、乱暴に寄越してきた。グラスの中で、くすんだライムグリーンが踊っているのを最後に、僕の意識は混濁した。たしか、次に目覚めたのは夕方頃で、頭が割れるように痛かったことを記憶している。
『お前はずるいやつだよ』
 今日の昼間、山田に予期せず言われた言葉を思い出す。今までだって散々僕に説教を垂れてきたが、あんなふうに言われたのは初めてだった。自分の中の経験や思い出、物の考えを総動員してみたが、どうしても『僕』と『ずるい』が結びつかなかった。でも、どういうわけか、それを受け入れ、飲み下し、消化している自分もいた。勇気があるか、ないかでいえば、間違いなく僕は後者だろうから。
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