七回裏、代打、ドルフィンキック

2.

 バス通り沿いを道なりに進み、大通りのスクランブル交差点を斜めに渡ると、閑散とした駅前ロータリーが眼前に現れた。広場の中央には噴水があって、その周辺にいろとりどりの花が植えられた花壇と『うつくしいまち、よいまち』と書かれた大きなのぼりがある。レンガ敷きのコンクリートはすっかり色褪せてしまっているが、かつては鮮やかなツートーンであったことを窺わせる。人影はまばらで、バス停留所でリュックサックを背負って待ち呆けているお年寄りの姿が散見される程度だった。駅舎の横で営業している蕎麦屋は、お世辞にも繁盛しているようには見えない。
 いくつかの停留所を通り過ぎてロータリーの反対側に回りこむと、古い雑居ビル群の一階にシャッターの閉じられた何軒かの店舗が立ち並んでいる。半分だけ閉じられているところもあったが、軒並み『テナント募集中』の張り紙が貼ってあった。
 そんな店舗に囲まれながら、一軒、トリコロールカラーの看板が目に入る。そこが、僕のアルバイト先だった。看板の塗装は剥げかけていて、かろうじて『文房具のナカネ』と読める。ネの下あたりに書かれてあるはずの電話番号にいたってはもうほとんど読み取れない。入り口のショーウインドウには地元の公立中学校の制服、男女それぞれ一着ずつが展示されていた。店舗の右側には上へ続く階段があって、二階の不動産事務所につながっている。入り口の横に観葉植物の鉢植えがあるが、どことなく元気がなく、しおれているように見える。北向きのせいで日差しが届きにくいからかもしれない。ガラスのドアを押して入ると、冷気が僕を迎え入れた。
 いちおう、入るときに「こんにちは」と声をかけたつもりだったが、店主の出てくる気配がない。ついでに、お客も誰一人としていない。なんだかぶっそうだな、と思わなくもない。もう一度大きな声ですみません、と声を張り上げると、奥の事務所兼休憩所につながる扉からひょっこりと初老の男性が姿を現した。真っ白な短髪と色黒の肌が対照的で、深いほうれい線が目立つ。背筋はぴん、と張っていて、健康的な印象だ。
「おお、みっちゃん、来たか。早かったな」
「こんにちは」僕ははにかみながら応える。「今日も暑いですね。ここへ来る前に熱中症になるかと思いましたよ」
「これからが夏本番だぞ、みっちゃん。今からバテとったら体がいくつあっても足らないだろう」ワハハ、と豪快に笑って僕の肩を力強く叩く店主。「それじゃあ、今日も店番と掃除、頼むな。何かあったら呼んでくれ。よろしくな」ひらひらと手を振ると、そのまま奥に歩いていった。
「あ、ちょっと待ってください」
「どうした」
「今日は僕一人ですか?」
 そう訊くと、店主はうーんと首を捻って、腕を組み、考え込んだ。かたく目を閉じ、俯き、沈思黙考するその表情には深い皺が刻まれて、年齢分の苦労をしてきたことがうかがえる。僕は、少しだけ申し訳なく思ったが、目を開けるといつもの店主らしさが幾分か戻っていて、少しだけ安堵する。
「昼にも声をかけたんだが、部屋から出てきてくれなくてな……。ま、腹でも減ったらそのうち出てくるだろう。そのときは、仲良くしてやってくれ。みっちゃんなら年も近いし、オレよりは扱いもうまいだろう。すまんが、よろしく頼むな。仕事終わったらアイスおごるからな」
「なんというか、いつもすみません」
「いいってことよ。それと、『すみません』は軽軽しく使うもんじゃない。男ならどん、と構えて、どうしても自分に非があったときに誠心誠意を持って謝るんだ。『すみません』より『ありがとう』のが気持ちいいだろう? 自分も、相手も。な?」
 店主は白い歯を覗かせて笑う。すっかりいつもの調子に戻っていた。

 僕がこのアルバイトを選んだのは、全くの偶然と幸運によるものだった。
 この町で一人暮らしを始めてから、しばらくは実家からの仕送りで日々の生活を送っていたが、サークルに顔を出すようになってからは、飲み会や、食事代、交通費などの交友費がかさむようになってきて、それだけではとてもやっていけなくなった。それに、大学は教材費も結構かかる。いつまでも親に頼ってはいられないと思った僕はアルバイトを探すことにしたのだが、そのときにサークルで最も懇意にしている例の小太りの先輩から、この文房具店で人員を募集していることを教えてもらった。先輩はその話をする一週間前まではここで働いていたらしいのだが、すでに新しいアルバイト先を見つけていて、ここをやめる旨を店長に申し出たところ、代わりに誰か連れてきてくれないかと頼まれたという。僕は、まさに渡りに船という心境で、そのありがたい申し出を一も二もなく、快諾した。
「おお、キミが谷くんの代わりに来た子かね? 待ってたぞ。さあ、そこに署名してくれ」
 店主は面接もそこそこに、僕を即断で採用し、他愛もない雑談に花を咲かせた。十数年前から、ここで店を構えていたらしいが、客足が途絶えないのは学校指定用品の注文が集中する春先くらいのもので、それ以外のシーズンは親子連れの客や近隣の学生がちらほらやって来る程度だという。それなのに、この地方にしてみればわりと高水準の時給で、僕は少なからず、驚きを隠せなかった。
「こんなにもらっちゃっていいんですか?」
「学生なら、これくらいないとろくに遊びにも行けんだろう。その分、しっかりと働いてもらうからな。谷くんに負けない働きぶりを期待しているぞ」
 僕は、一抹の重圧を感じながらも、がんばります、と返事をした。

 床のモップ掛けをしていると、予期せずして、にぎやかな声が静かな店内に響き渡った。顔を上げると、小学校高学年くらいの男の子三人組が鉛筆売り場の辺りで、ああだこうだと商品を物色していた。
 いかにも小学生の男の子らしく、オレの鉛筆のがかっこいいとか、バトえんなんて時代遅れだ、などと言いあいをしていて、思わず頬が緩んだ。しばらくして、一団が結局何も買わずにやいのやいのと言いあいながら出て行ってしまうと、辺りに静寂が戻ってくる。僕は、モップ掛けの作業を再開した。しようとした。そこへ、奥からもう一つ騒がしいやりとりが聞こえてきた。
「だから、私は手伝わないって言ってるでしょう? もうほっといてよ! 人の都合も知らないで!」
「――こら、待ちなさい、未来! オレの話をちゃんと聞け」
「うるさい! お父さんなんか、知らない!」
 罵声に混じって、ドアが勢いよく閉じられる音がする。
 ほどなくして、足音が一組、こちらに向かってくる気配がした。音はどんどん大きくなって、床を踏み抜かんとする獰猛さを伴って、大股で接近する。
 僕は、商品棚越しに、勢いよく風を切って通過していく彼女の横顔を盗み見た。肩を怒らせ、顔を真赤にして、唇を真一文字に結び、憤怒を隠そうともしないその様子は、たしかに反抗期の年頃の少女、そのものだった。そして、通路をわきめもふらず通過すると、入り口から外へ飛び出して行ってしまう。僕はあっけに取られたまま、春の嵐にも似た光景を見送っていた。
 一拍置いてから、事務所への鉄扉が静かに開かれる。
 決まりの悪そうな顔をして店長が現れた。
「おじさん……」
「いや、すまんな。オレにとっては誠心誠意で接しようと心がけたんだが、どうにも拒まれてしまったな」白髪の頭を照れ隠しに撫でながら、はは、と乾いた笑いを漏らす。「しかし、みっちゃんには毎度我が家の恥ずかしいところを見せてしまっているな」
「いえ、そんなことは」
「ま、狭っくるしくてやりづらいとは思うが、これからもよろしく頼むよ」
「はい。それじゃあ、僕は業務に戻ります」
 いくら懇意にしてくれているとはいえ、僕はあくまで部外者だ。下手に家庭内の問題に介入してしまっては、事を荒立てることにもなりかねない。だから、仕事で報いるしかなかった。
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