七回裏、代打、ドルフィンキック

3.

 件の彼女とは、以前に何往復か会話をしたことがあった。ただし、その内容がおよそ世間一般で言うところの「会話」と呼べるか、僕にはまるで自信がない。なにしろ、沈黙が彼女と共にいた時間の大半を占めていたのだから。それも、店内が押しつぶされるかのような重圧感を伴った沈黙だ。僕が彼女に必要最低限の業務連絡以上の言葉をかける道理があるはずもなかった。だから、一度だけ彼女から突拍子もない話を振られたときは、戸惑った。けれど、そのときの僕は平静を装うことで必死になっていた、と記憶している。
「ねえ、三木谷」それが僕の本名だ。けれど、友人は誰も僕をそういうふうに呼ばない。みんなして、秘密協定を結んだみたいに、「みっちゃん」やら「みっきー」やら、果ては「ミキティー」呼ばわりする輩さえいる始末だ。慣れとは恐ろしいもので、いつの間にか、そういうポジションに収まってしまっている自分に、何の違和感も疑問も持たなくなってしまった。だから、そういう環境に慣れてしまった僕にとって、彼女の呼び方は新鮮だった。僕をなんとなく包んでいた薄皮一枚を剥ぎ取られた心地になり、落ち着かなかった。
「な、なに」なるべく彼女と目を合わせないよう、学習帳を整頓する作業に没頭しようとする。
「あんたさ、彼女いる?」
 薄皮どころか、身包みすべてを追いはぎされ、両手両足を楔で打ち込まれたかのようにその場から指一つ動かせなくなった。一挙手一投足が、彼女の監視下に置かれたような錯覚を起こし、わずかでも不審な挙動を起こした時点ですべての信頼が途絶えてしまう、そんな予感に囚われた。我ながら、情けなく思う。
「いない。いないよ」とワンテンポずれた間の後、やっとの思いで喉の奥から搾り出すような声が漏れた。
「ふうん」彼女は大して面白くもなさそうに、投げやりに相槌を打つ。そして、うーんと腕を組んで、目を閉じ、唸り始める。口が裂けても言えやしないが、その仕種が店主そっくりで、ああ、やっぱり親子なんだなあ、と妙に感心してしまった。それから、けっこうな間があいてしまったので、話はそれまでかと油断したのがまずかった。
「じゃ、あたしが彼女になってあげよっか」
「はあっ?」
 僕は素っ頓狂な声をあげる。と、同時に羞恥で耳が熱くなるのを実感した。穴があったら入りたい、とはまさにこのような心境のことをいうのだろう。
 けれど、彼女は僕の醜態などどこ吹く風で、自分の話をつらつらと続けていく。
「それで、二人して町を抜け出して、駆け落ちするの。こんなおんぼろ文房具屋なんか見限ってさ。お父さんがびっくりして捜索願を出す頃には、あたしたちはどこか知らない町に逃げ延びてるの。それで、ハッピー・エンド」彼女はパチン、と指を鳴らした。
「それじゃあ、駆け落ちとはいえないじゃないか」
「うん、駆け落ちじゃないね」
 彼女は寂しそうに、笑う。おそらく、怒り以外の感情を露にする彼女を目にしたのは、これがはじめてだった。商品棚越しに覗き見た彼女の横顔は大人びていて、とても僕より年下の高校生には思えなかった。
「もうさ、こんなとこやめちゃえばいいじゃん。お金だって、全然足りないし。お父さんだって、なるべくなら見舞いに行きたいって言っていた。だったら、やめちゃえばいいのに」
 店長の奥さん、つまり、彼女の母親がここ半年ほどずっと入院していることはなんとなく聞かされていた。生活習慣病の類で、退院は容易だが、念のためということもあって、投薬と治療を続けているらしい。それでも、店主は店じまいをせず、開店中の接客を僕や彼女に任せてくれている。
 もっとも、彼女が店を手伝うのは、まさに彼女の気まぐれによるもので、実質的に一介のアルバイトに過ぎない僕が、平均して週四回程度、日中から閉店まで、雑事をこなしている。たまにやってくる昔なじみの常連客には店主自らが、世間話も兼ねて応対しているけれど。
 しかし、あるとき僕は気づいてしまった。常連客が帰った後、決まって一瞬だけ寂寥感を滲ませている店主に。そんなとき、店長の後姿はひどく小さく見えてしまう。
 赤の他人にすぎない僕ですら気づくくらいなのだから、娘にとってはなおさらだろう。そういう感情が積み重なって、現在の彼女があるのだと思う。
「こんなこと、あんたに言ってもしょうがないか」
 彼女は会話ともつかぬ会話を強引に断ち切ると、黙々とカウンター周りの清掃を再開した。
 それきり、言葉を交わすことはなかった。

 一段落を終え、角に設置された防犯用ミラーをぼんやりと眺めていた。凸面形状の中では、視野が広角化された世界が広がっている。木張りの床、等間隔に設置された背の低い商品棚、L字型のカウンター、それらすべてがカーブがかっていて、僕はふと地動説を唱えたコペルニクスを思い出した。地球は丸いと考える向きが古代ギリシア時代からあったというのは、驚嘆に値する。想像力に乏しい僕程度の人間では、もし未だに天動説と地動説の両者で争っていたら、前者を支持することだろう。何しろ、端っこは落ち着く。けれど、現実では端っこなんか存在しなくて、凸型ミラーの最奥に映りこんだカウンター内で突っ立っている僕の後ろにも世界は存在するし、空間を隔てている壁を透明に見立てれば、道路があって、駅前ロータリーがあって、駅舎があって、果てのない世界へシームレスにつながるのだ。これは人間関係においても然りで、僕は自分こそが端っこの人間だと信じていたが、自分というホームから四方八方に関係をつなげるリンクがあって、各々が小規模で輪を形成し、複雑にこんがらがった糸を上手にほどき、くぐり、結び、ときに断裂して、自分の立ち位置が確定する。端っこならば一方のことだけを考えていれば楽でいいのだが、実際は全方位を伺って総合的に考えなければならない。ままならぬ世の中だ、と思う。
 山田のように自由奔放な人間に憧れることもある。人見知りせず、臆面もなく、誰にでも気さくに話し掛けられる彼が羨ましかった。けれど、こうも思う。自分くらいの年の男ならばそれが当たり前で、もしかすると同世代の中で自分だけが通過すべき儀礼をさぼって今に至っているのではないかという底知れぬ恐怖だ。きっと、なんの根拠もなくここ一番で起死回生の一発が打てると心の中で余裕をかましてきた報いに違いない。僕は追い込まれていた。欠落感を埋める方法を頭の中で何度となくシミュレートしながら、時間ばかりが無情に経つもどかしさに、苛立っていた。あるいは戸惑っていた。
 明日、僕達は市民プールに行く。
 けれどそれは言葉通り以上の意味を含蓄した、山田が仕掛けた罠だ、ということにも気づいていた。
「荒療治でもしなきゃ、お前は行動できないヘたれだもんな」
 ヘたれとは失礼な、と僕は即座に反論したが、実際のところ的を射ていて、頭の中に黒い靄がかかったみたいになった。いわゆる防衛本能というやつかもしれない。
 それにしたって、と自嘲の笑みをこぼす。
 ――僕に、僕如きにできるのだろうか。
 壁にかかった鳩時計を見上げると、午後七時すぎ。閉店が午後八時だから、あと一時間ほどだ。あれから数人、大学生風の客がやってきたが、みんな申し合わせたように大学ノートを一冊ずつ買っていった。
 そういえば大学ノートってなんで大学ノートと呼ぶのだろうと疑問に思わなくもないが、地方大学に通う僕の身の丈には合っていなさそうな気がしたので、思考を中断した。
 夏の一日は長い。
 七時を過ぎても空は明るく、夜の帳が下りる気配さえない。けれど、徐々に店内照明が窓の外の夕闇とのコントラストを醸し出して、あっという間に闇が訪れる。
 そんな折、僕はふとした偶然で入り口の外に人影を発見した。
 人影はちょうどショーウインドウの向こう側にいて、膝を抱えてうずくまっていた。
 僕は、その後姿にどことなく――ほぼ確信していたが、そう言い切れないのが僕の性根だ――見覚えがあった。
 あれは紛れもなく昼間、肩を怒らせ、顔を真赤にして、唇を真一文字に結び、憤怒を隠そうともせず、怒涛の勢いで店の外に飛び出していった彼女、その人だった。
 着の身着のまま出て行ったときと全く同じで、派手な色のタイトなTシャツを着ていたので、ここからでもよく目立つ。
 いったい、あんなところで何をしているのだろうと、横目で様子をうかがう。
 ほっそりと長い首筋が小刻みに揺れているように見えた。
 その微弱な振動が申し訳程度に染め上げられたショートヘア、細い肩、背中、二の腕に波紋の如く広がっていく頃、やっと気づいた。
 彼女は、泣いているのだ。
 その事実に僕は、気まずさよりもむしろ申し訳ない気持ちになった。
 こんなところで何をしているのだ、僕は。
 何か声をかけるべきではないのか。でも、他人に過ぎないのに? 余計なお節介と、拒絶されるのが目に見えているのに?
 いや、それでも。それでも僕は。
 ――お前はずるいやつだよ。
 山田の一言が頭から離れず、何度も僕の頭の中で反響する。
 そうだ、僕はずるいやつだ。無償の好意ばかりに飢えて、誰かからの拒絶をおそれて、そのくせ困っている人に手も差し伸べない、卑怯で傲岸不遜な男なのだ。
 世の中は善意ばかりでなく、むしろそれ以上の悪意が潜んでいると経験上知っている矮小な僕は、悪意をどうにか退けようと楽な道ばかりを選んできたのだ。せめて、わずかな抵抗でいいから善意を与える人になればいいのに。誰かを救えればいいのに。
 頭が、胸がカッと熱くなった。ええい、もうどうにでもなれという投げやりな衝動が、僕を扉の向こうに向かわせた。
 硝子扉を押し開けるとむっとした熱気。
 たった今決意したばかりの衝動を溶かしてしまいそうな蒸し暑さだった。
 彼女が何事かと顔を上げる。
 予想通り、目が真赤に腫れていて、普段の気丈な彼女を見慣れている僕には、痛ましく見えた。
 まっすぐ彼女の元に歩み寄ると、ポケットからティッシュを取り出した。
 そのまま彼女の鼻先に近づける。それ以外の方法なんて知らなかったから。
 彼女は呆けたような顔で僕とポケットティッシュを交互に見比べると、おずおずと右手で受け取った。
 僕はすかさず距離を開けて、踵を返した。返そうとした。
「あのさ」
 けれど。僕の口は僕の意思に反旗を翻して、無意識に言葉をこぼした。きっと、わかっていたのだろう。何かを口にしなければ、夏の夜のおかしなひとコマはすぐにでも終わってしまいそうな、そんな予感がした。それは、弱々しい光を放つ線香花火のように頼りなくて、心許ないきっかけだった。だからこそ、絶やしてはならないと、僕は必死に言葉を紡ぐ。
 彼女が僕を見る。鼻をかみながら、僕を見上げる。どうしてだか、うまくいくような予感がした。根拠のない自信が脳内のアドレナリンを活性化させる。僕の最も苦手とする人種が、浮かび上がっては弾ける。自分も、あの人たちと同じ轍を踏み出そうとしているのだと。
 僕は充分な間を取ったあと、改めて彼女に向き直り、口を開く。
「明日、プールに来ない?」
 けれど、その試みは脆くも失敗に終わる。
 彼女は僕の放った言葉の意味するところをしばし考えあぐねたのか、首を捻り、足元を見つめ、それから眉間に皺を寄せ、渋面をつくり、口を尖らせ、僕を睨みつけた。
「はあ?」
 不機嫌そのものを全身に滲ませた彼女が、低い声で威嚇するように言った。
 僕は、止めることもできず、ぺらぺらと、最も僕の忌み嫌う軽薄な男がするように続けた。
「朝十時。市民プールで、僕と友人――山田ってやつなんだけど、そいつが泳ぎに行くんだ。よかったら、でいいんだけど」
「…………」
「あの、水泳は有酸素運動で、健康にもいいらしいよ。だから、その」
 ああ、僕は一体何を口走ってるんだ。こんなことを彼女に言いたいわけじゃないのに。
 もうちょっと気を利かせた言葉の一つでも言えればよかったのに。
 自己嫌悪にも似た一人反省会が僕の中で同時進行する。やっぱり、声なんてかけなければよかったと、今更になってネガティブの大洪水がほんのわずか芽生えた僕のやけくそなポジティブさを洗いざらい押し流そうとする。
 できることなら夜の闇に紛れて、消えてしまいたいと思うほどの時間が過ぎた頃、予期せずして彼女が口を開いた。
「……考えとく」
 その表情は限りなくニュートラルで、僕は少なからずほっと胸を撫で下ろす。
「そ、それじゃあ、待ってるから」
 彼女はちら、と僕を一瞥すると、また元の薄暗いコンクリートに目を戻した。
 なぜだか、急に店内の明るさが恋しくなって、ショーウインドウ越しに中を見遣る。
「ぶっ!」
 通路のど真ん中で一人の初老の男性――つまり店主が両手に一本ずつ棒アイスを掲げ持って突っ立っていた。
 しかもすこぶる機嫌がよさそうである。
 なんだかいやな予感のした僕は慌てて視線を戻そうとした。
 しかし。
 目が合う。
 店主の喜色満面の笑みが炸裂した。
 なるほど、これが中年の星か、と妙に納得してしまった。
 これは必然じゃなくて"偶然"目が合った――できれば"そういうこと"にしてほしい。
 夕闇に目を戻すと、彼女のもの言いたげな視線。
 ほっそりとした顎に手を当てて、品定めをするように僕を頭のてっぺんから足の先まで無遠慮に眺めまわす。
 僕は視線に耐え切れず、どうしたのと訊いてみる。そういえば、心の中で続いていた緊張感が雲散霧消していることに気づく。挙動は不審であっても、心理的には限りなくニュートラルだった。
「三木谷さ、泳げるの?」彼女は疑わしそうに首をかしげる。
「溺れない程度には」僕は謙遜して答えた。
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