七回裏、代打、ドルフィンキック

4.

 泳げるか泳げないかで言えば、僕は間違いなく前者の部類に入るほうだった。もちろん、水泳部連中の鼻を明かすようなタイムは叩き出せなかったけど、それでも、僕にとっては自信のある競技だということに間違いなかった。けれど、それも遠い過去のこと。高校にはプールがなかったから、当然水泳の授業もなかった。とっくに泳法なんて忘れてしまっている可能性が高い。もちろん、体が覚えてさえいればそれに越したことはないのだけど。
「お前、どうして水泳部に入らないんだよ」と当時僕の親友だった男に何度となく勧誘されたことを思い出す。けれど、結局首を縦に振らなかった。あの頃の僕はギャップ萌えの魅力に取りつかれていて、普段泳げなさそうな顔をしながら、周りの連中を出し抜いてやりたいという気持ちが作用していたように記憶している。本気を出さないことがかっこいいと信じてさえいた。要するに僕は子供で、反抗期だったのだ。一丁前の大人になるための通過点。僕は通過できたのだろうか、いまだ自信はない。法律だけが僕に責任という名の大義名分を与えてくれはしたが、選挙以外でそれを実感できる機会はなかった。
 図体の大きな市営バスが窮屈そうにロータリー内へ進入してきて、数人のお客が吐き出されていく。
 今日の仕事から解放された僕は、伸びをしながら、クロールのフォームをそらで実践してみた。
 頭の中で思い描いたイメージでは忠実に中学時代の自分を再現していたが、思い通りに腕が動かず、少しだけ不安になる。何にせよ、実際に水に入ってみなくては、どうにもならない。
 通りすがりの買い物袋を下げた主婦の一団にけげんな目を向けられながら、僕は帰路を目指した。
 アパートに戻ってくると、山田が部屋の前で座り込んでいた。英字のプリントされたTシャツにジャージ姿でいつも以上にラフな出で立ちの彼は、僕に気づくと、煙草を揉み消して、手を上げた。
「こんなところで何してるんだよ」と訊くと、「いや、ちょっとな」と言葉を濁し、箱から新たに煙草を取り出して、火をつけた。
 まだ夏が始まったばかりだというのに、高周波の音を出す虫達の輪唱がそこかしこからジイジイと聞こえてくる。
 蛍光灯の光が時折弱まっては点滅して、心許ない。
 蒸し暑い夜だった。
 お前も吸うか、と山田は箱を突き出したが、そんな気分じゃない、と僕は断った。
「まあ、座れよ」
 山田に勧められるまま、隣に腰を下ろした。
 しばし、静寂が訪れる。山田が深く息を吐き出すと、濁った煙と臭いが辺りを支配した。
 ここからだと星はよく見えない。
「今日も暑いな」山田が前を向いたまま言う。
「そうだな」
「お前さ、駅前の文房具屋で働いてるんだよな。いいよな。俺、今日も練習だったんだけどさ、体育館は蒸すように暑かったぜ。知ってるか? バスケって、思ってる以上に疲れるんだぜ。みんな俺より背が高くてさ、カットするだけでも一苦労だ」
 はは、と乾いた笑いをこぼす。そこまで一息に喋ると、山田は再び煙草を加えた。どこか、空疎な印象を受けた。らしくないな、と僕は思った。他愛のないことを言っているのに、心ここにあらずという感じで、だから、何か口にすべきだと思った。彫りの深い顔立ちに、若さにそぐわぬ苦悩の皺が刻まれているような、そんな錯覚を受けた。考えのまとまらないまま、口を開く。
「山田、さ」
「時間って、経つのが早いよな」
「たいしたことを成し遂げても、そうでなくてもね」僕は付け加えた。「バスケって、楽しい?」
「ああ、もちろん。お前もやってみるか? 試合の後のスポーツドリンクと、マネージャーの笑顔は格別だぜ?」
「僕は遠慮しておくよ。それより、山田はこんなところで何をしてるんだよ。また彼女と喧嘩でもしたの?」
 あてずっぽうに、山田の悩みの正体を当ててやろうと、冗談っぽく言ったが、山田は首を振るだけだった。
「いや、喧嘩はいつものことだけどさ」
「それじゃあ、どうして」
「ミキティーさ」
 山田が僕に向き直る。さっき僕が感じた苦悩の影が色濃くなるのがわかった。すっかり長くなってしまった先端の灰を落とそうともせずに、次に言うべき言葉を吟味している、そんなためらいのような間があった。
 そういえば前にもこんな事があったなと、僕は回想する。
 たしか、無理やり山田に連れられたコンパの帰り道でのことだ。
 大して場も盛り上がらず、白けた雰囲気のまま解散となった。原因は間違いなく僕にあると思った。なにしろ、ろくに会話もできず、隅っこのほうで酒ばかり飲んでいたから。折角誘ってくれた彼に対して申し訳ない気持ちになり、いつまで経っても同じ失敗を繰り返す自分に嫌悪していた。
 そんな僕の背中を叩いたのは、山田だった。彼自身はちゃっかり女の子たちと連絡先の交換をしていて、てっきりその中の誰かとよろしくやっていると思っていたのに。
 けれど。
「気にすんなよ、次があるって」
 彼は、なぜか僕に対して、励ましの言葉をかけた。
 そうだ、そのときに丁度今のような表情を浮かべていたのだ。所詮、他人事なのにまるで自分の身に降りかかった未曾有の事態みたいな顔をして。
 煙草の灰が、重力に耐え切れずに、ぽとりと地面に落ちる。
 それを待っていたかのように、山田が口を開いた。
「ミキティーさ、将来何をやるつもりなん」将来、というのはさほど遠くない未来のことで、それがすぐそこに差し迫っている問題だということは、嫌というほどわかっていた。エントリーシートの書き方や、適職診断で一応は準備段階に入っている。
「僕は……販売系の仕事に就こうと思っている。具体的にはまだ決まってないけど」診断結果で最も自分に向いていそうな職種をあげた。でも、僕は途中から気づいた。話していることには何一つ嘘がないはずなのに、どことなく他人事で実感が湧かず、うすぼんやりとした青写真しか描けていない自分に。ただ、今までの経験から、自分にはこれくらいならできそうだ、と根拠もなく当たりをつけて、進路希望票を提出していただけなのだ。周りの連中がそうしているみたいに。
「そうか」山田はそれだけを答え、吸殻を携帯灰皿にしまいこむ。
「山田は? どこへ進もうと思っているの」
「俺は自衛隊に行こうと思っている。採用試験が来年の五月にあってさ、今その対策を始めたばかりなんだけど、身体検査の基準がかなり厳しいらしい。俺、頭よくないしさ、正直受かるかどうかはわからないけど、とにかくやるだけやってみよう、って」
「へえ」
 意外だった。山田が自衛隊に進もうと考えているなんて。
「俺の親父も元自衛官でさ、訓練が死ぬほどきついぞ、って笑いながら言われた。俺は親父みたいなだらしない体形にはならねえ、って言ってやったら、苦虫を噛み潰したような顔をしてた。はは、あれはケッサクだったぞ」
「そうなんだ」
「お前、言っとくけど、ランニング一日二十キロとか、地獄だぞ。膝が震えて、喉がひゅうひゅう鳴っててさ、もう走りたくねえ、ってマジで思ったもん」
 どうしてそこまでするんだ、とは訊けなかった。山田がしっかりと将来を見据えて努力をしていたなんて露ほども知らなかったし、てっきりモテるからという理由でバスケをしているだけなんだ、と思っていたから。
「ミキティー。俺ら、もう三回生なんだぜ。早すぎだよな」
 山田は寂しそうに笑い、ウルフカットの頭を掻き毟る。何かに困ったとき、決まって髪を掻き毟るのは、彼の癖だった。そうか、山田と出会ってもう三年なのだな、と何故か両肩に鉛のようなものが載せられた気分になる。三年というのは決して短い時間じゃない。
 だから、僕はそんな彼の顔を直視することができなかった。
「冬には就職活動が本格的に始まってさ、来年の今頃にはもうこれからの人生の基盤が決まってしまっている。まだまだ、遊び足りないなんて思ってたら、いつの間にか夏休み最終日がモラトリアムから薄皮一枚隔てたところにあったんだなあと、思い知らされるのさ」
「まるで七回裏だね」僕は意図せず今日の高校野球を思い出しながら、やっとのことでそれだけを口にする。実のところ、野球は体育の授業以外ではあまり馴染みがなく、専ら観戦する側なのだけど。脳裏に、大差でリードされて、いともたやすくくずおれてしまいそうな高校球児の姿が思い浮かんだ。
「七回裏?」山田が訝しげに僕を見遣る。
「もう、猶予期間は殆どないんだなあって。今日まで、何となく怠慢に過ごしてきたけどさ、こんな風にバカやってることなんて、できなくなるんだなって。チャンスはあったはずなのに、バットを振りもせず、見送ってさ。せめてフォアボールで出塁できたらいいな、なんて漠然と思ってた」
 途中から自分でも何を言っているのかよくわからなくなってきた。
 たぶん、怖いのだと思う。こんな風に山田と対等で話すことも、自分の弱さを認めることも。
「バッカ、お前。もう、九回裏まで追い込まれてるぜ。九回裏、ツーストライク、スリーボール。そんくらい危機感ねえと、多分終わるぞ。試合も、お前も」
「え」
「振れよ。クソボールでも、絶対打ち返せない速球でも、かまわずさ。情けないへっぽこスイングで笑われちまえよ。それが、お前の結果だろ。ちがうか」
 僕は何も言い返すことができなかった。だって、いつだって正しいのは山田だから。
「まあいいや。それより、楽しみだよな、明日。きっと、いっぱいいるぜ、お前のストライクが」
「僕は好色じゃない」
「照れんなって。ま、怖かったら俺の手並みを指くわえて見てるんだな。絶対、悔しくて仕方なくなるぜ」
 山田は不敵に笑う。その横顔は自信に満ち溢れていた。
 不意に、今日の文房具屋での光景がありありと甦る。なぜ、僕はあんなことを口走ってしまったんだろう、と後悔している。山田だったら、どんな結果になるだろう。それを考えた辺りで憂鬱になった。
「さあて、どんな水着を着ていくかな」山田はそんな僕の鬱屈とした気分も露知らず、明日のことに思いをはせている。「ブーメランはさすがにまずいよな……」
 そこへ。
 どうやって外に抜け出したのか、でんすけが茂みから飛び出してきて、まっしぐらに山田の膝の上に飛び乗り、みゃあ、と甘えるような声で鳴いた。
「お、でんすけじゃん。はは、こいつ、ご主人様より真っ先に俺のところに来やがったぞ。おい、しっかりしろよ、ご主人様ー」山田はでんすけの体を前足の下から持ち上げると、体を僕のほうへ向け、おもちゃみたいに前足を動かして、からかうように僕の腕を軽く叩いた。
「ったく、人の猫だと思って」
「人の猫だからだ」
「なお、悪い」
 僕はビシッと山田を指差して、怒ってみせる。
 それから二人、目が合って、へへへ、とひとしきり笑う。
 山田が、猫を膝から下ろして、立ち上がり、尻についた埃を払い始める。
 僕もつられて立ち上がる。
 夜の空に、親指くらいの大きさの半月が浮かんでいた。まだまだ半人前の僕を励ますように。あるいは、叱咤するように。 
 山田は自室の扉に手をかけ、「それじゃ、また明日な」と言ったので、僕も「また明日」と返した。
 バタンと扉が閉まる。
 さて、僕も部屋に戻るか、と踵を返したところで、再び山田の部屋の扉が開く。
「ああ、そういえばさ」
「何」
「ミキティーって、泳げるん?」
「……僕って、そんなに運動音痴に見えるのかな」
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