七回裏、代打、ドルフィンキック

5.

 翌日。良く形容すれば日本晴れ、悪く形容すれば鬱陶しいほどの快晴で、出かける予定時刻の三十分程度前に目が醒めた。
 水道の水が冷たくなるのを待ってから顔を洗うと、なんとも心地よい。
 冷蔵庫の中にあった漬物と、昨日の朝炊いておいたご飯の残りをおにぎりにして平らげてから、余裕を持って山田の部屋に向かう。
 ピンポンピンポン、と備え付けのチャイムを立て続けに二回押してみる。
 しかし、音が鳴り終わっても静寂が続き、部屋の主が出てくる気配がまるでしない。
 続けて、ノックをするが、やはり同じだった。
 まさか、寝過ごしてるんじゃないだろうな、としかたなく携帯を取り出そうとしたところで、着信ランプが点滅する。
 案の定、山田からのメールだった。
「俺、先に行ってるわ。ミキティーも後から来いよ! 絶対だぞ!」と、絵文字を多用したカラフルな文章が踊っていて、僕は息をついた。
 目的地の市民プールに行くには、駅前ロータリー外周に設けてある三番停留所から発車する市営バスに乗って、五つ目の停留所で降りなければならない。別に、自転車で行けばたいした距離ではないのだが、あいにく自転車を持っていない。実家に置きっぱなしである。だから、必然的に大学も公共交通機関を使っての通学だ。
 この方面には三十分に一本しかバスが来ないので、遅れたら大変なことになる。時刻表を見ると、あと三分ほどで到着するらしい。しばし、容赦のない日差しと蝉の声を浴びながら待ちぼうけしていた。
 ふと、文房具店が視界に入る。当然ながらまだシャッターが閉まっていて、あの一角だけ誰からも忘れ去られた廃墟みたいになってしまっている。世界が終わるときは、意外とあんな感じなのかもしれない、と不謹慎なことを想像してしまった。 
 市営バスが、排気ガスの熱気とむせかえる臭いを撒き散らしてやってくる。白と若草色のツートーンの車体の横に広告が掲載されていて、「エコロジーを目指して」と書かれてあるのがなんとも滑稽である。
 ぷしゅう、とスライド式の扉が開く。ステップを上り、硬貨を投入して、空いている座席に座る。客は数人しかいなくて、いずれもお年寄りばかりである。僕のほかに乗ってきた客もいなくて、採算は取れているのだろうか、といささか心配になる。運転手がくぐもった声で「C住宅行き、発車します」と告げ、前扉を閉めて発進しようとした。しかし、ギリギリになって慌てて駆け込もうとしたお客がいて、しぶしぶエンジンを止めて、扉を開ける。客は「すみません」と平謝りして、料金投入口に硬貨を投入した。それを待ってから、即座にバスが発車する。
 客は慌てて吊り革につかまったが、やがて、最後部に座っていた僕を視界に捉えると、やあ、と手をあげた。
 店主だった。
 クリーム色の帽子を目深に被り、少し丈の長いグレーのスーツをボタンの前を合わせずに着ていた。普段の店主を見慣れすぎて、どうにも違和感が拭えない。袖口から覗かせる腕時計もどことなく高級に見える。僕にはブランド品の価値はよくわからないけど。店主が僕の隣に座ると、整髪料の匂いがかすかにした。右手には紙袋を下げていて、そこから何かの花が顔を覗かせ、優しい匂いを漂わせている。
「おじさん、今日はどうしてこのバスに? お店はお休みですか?」
「いや、ははは……まあ、そんなところだ」
 文房具ナカネの店主は、一つ目の質問には答えずに、困ったような顔を浮かべた。臨時休業しちゃっても大丈夫なんですか、と僕が問うと、オーナーの特権だ、と店主が答える。
「それにしても、偶然ですね」
「ああ、まさに奇遇だ」店主は窓の外に落ち着きなく視線をやりながら言う。「みっちゃんは、これからどこか遊びに行くのか?」
「ここからちょっと行った所にある市民プールまで。最近体がなまってしまって、鍛えなおさないといけないなあと思っていたんですよ」山田に誘われて、のくだりは伏せた。
「それはいい。いいよ、みっちゃん。男たるもの、体が資本だからな」オレも若い頃は海に繰り出しては沖まで遠泳をよくしたものだ、と嘘か本当かわからないような誇張表現で武勇伝を語り始める。そこから何故か海女さんの魅力に話が移行し始める。僕は、それになんとなく相槌を打つ。
 会話が途切れると、車内にアイドリングとウィンカー音だけが響く。
 信号待ちのバスは右折レーンに進入していた。
 なんとなく、今聞くべきだな、と思った。「おじさん」
 なんだい、みっちゃん、と店主が窓の外から目を戻す。
「今日はどちらに行かれるんですか?」
 信号が青に変わる。前の車に続いて、バスがのろのろと前進する。店主の視線が見えない粒子を追いかけるように彷徨う。
 そのうち、例の沈思黙考のポーズになって、言うべきか言うまいかを悩んでいるように首を捻った。
「いや、今更隠すことでもないか」とひとりごとを呟いている。
「ひょっとして、お見舞いですか?」
「う、ううん? どうしてそれを」
「いえ、次の停留所がD病院前でしたから」それに、以前、そんな話を娘さんから聞きました、とは言えなかった。
 信号が赤に変わり、矢印信号が点灯する。バスが大回りに右折して、体が左に傾ぐ。機械のアナウンスが、「まもなくD病院」と告げる。 
「うん、まあ、その通りだ。しばらく、行ってなかったからな。たまには行ってやらんと」
「そう言われたんですか?」
 店主は、音が出るほどの勢いで僕を振り向き、ぶしつけに眺め、悲しそうに笑った。
「それもある」と店長は頭に手をやり、「そうか、みっちゃんは喧嘩の一部始終を見ていたんだったな。恥ずかしながら、それが理由だよ」と帽子を叩いた。
 ブレーキがかかり、バスが停車する。周りの乗客は僕以外こぞって席を立ちはじめて、まるで貸切だな、と思ったが、停留所に何人か並んでいるのが見えた。
「おじさん。おじさんはどうしてお見舞いに行かなかったんですか」僕は彼女の気持ちを代弁するように言った。何となく腑に落ちないというのもあった。もちろん、僕を雇ってもらえていることは深く感謝しているのだが、それでも尋ねずにはいられなかった。
 店主は、答える代わりに真面目な顔を作る。
 昇降口から人が降りていき、代わりの客が次々と乗ってくる。
 やがて、目尻と口元に皺を浮かべて、大仰に笑った。
「結局、最後に決めるのは自分自身なんだ、みっちゃん。人から何を言われようと、結果を出すのは自分自身なんだから。それが、責任というものだ」
「肝に銘じておきます」
「殊勝な心がけだ。では、オレはここで。また明日からよろしく頼むよ」中腰を浮かせると、いそいそとステップを降りていった。
 バスが発進してから気づく。もしかして、僕ははぐらかされたんだろうか?

「よう、遅かったな! もう俺は待ちくたびれたぜ。さ、早く行こうぜ」
 市民プールに辿り着くと、山田が入り口前で待っていた。ドーム状の本館の横にある広い駐車場はほぼ満杯で、混雑が容易に予想できた。受付で料金を支払い、ロッカーの鍵を渡され、更衣室に向かう。山田が、ちょっと先に行っててくれと言うので、何か忘れものか、と尋ねると、大きいほうだ、と冗談めかして言うので拍子抜けした。
 しばらくして、山田と合流する。「待たせたな。じゃあ、行くか」
 渡り廊下を経由して、案内看板にしたがって屋外のプールに向かう。通路を左に折れると幼児用プール、右に折れると二十五メートルと五十メートルの二つのプールがあるらしい。僕たちは右に曲がる。子供たちの黄色い歓声が近くに聞こえてきた。開けた場所に出る。二つのプールが縦に並んでいて、手前が全長二十五メートル、奥が五十メートルの競泳用プールらしい。二つの空間を隔てるように白い壁が設けられていて、奥のドアから競泳用のプールに通じているようだ。奥側にはキャパシティが三百くらいの観客席が見えたが、無人で、手前側は景観をよくするためか、ヤシの木が植えてあった。この暑いときにもかかわらず、パラソルは設置されていなくて、ああ、規則で禁止されているのだな、と思った。監視台の上ではサンバイザーを被った監視員が流れる汗を拭おうともせずにだらけた姿勢で座っている。プールの中には人がけっこうな密度で密集していて、人いきれで湯気が出てもおかしくなさそうな具合だった。
「なあ、本当に泳げるのかな」僕は日差しに目を細めながら、山田に問う。「とてもじゃないけど、人が多すぎて進めそうにもないよ」
「どうにかなるんじゃねえの」山田は投げやりに言う。「とりあえずシャワーを浴びようぜ。このままじゃ気持ち悪い」と言って、片隅に設置してあるシャワー台に向かった。
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