エレベーター・ラッキーガール

「まずったなぁ……」
 鏡の前で真新しいスーツに身を包んでいる男に向けて、橋本は溜息をこぼした。地図と時刻は何度も念入りに確かめた。しかし、橋本は自分が重度の方向音痴ということを失念していた。慣れない地下鉄の構内で迷ったばかりか、裏通りに位置する雑居ビルを探し当てるのに右往左往した。したがって、ワックスで整えたはずの髪型は、流れる汗と混ざりあって台無しになっている。
 だが、いつまでもくよくよしていられないと、橋本は背筋を意識して伸ばす。それで、気持ちの整理はひとまずついた。エレベーターは目的の五階に向かってゆっくりと上昇している。
 ふと、一瞬浮き上がるような感覚の後に、扉が開く。誰かが乗り込んできたようだ。
「すみません、五階をお願いできますか」スーツに身を包んだ若い女性だった。長い黒髪が揺れると、狭い空間にほのかな甘い匂いが漂う。
「あ、僕も五階ですよ」思わず直立不動になって橋本は答える。
「そうなんですか、よかった」
 女性は真っ直ぐに橋本を見つめて笑顔を向けてくるが、照れくさくて視線をわずかに逸らす。扉が閉まると、エレベーターは再び上昇し始めた。低いモーター音がやけに耳につく。
 橋本は階数表示盤を意識的に見上げる。狭い空間に自分以外の人間、それも同年代の女性がいると必要以上に緊張する性質だった。そのせいで、先週のグループディスカッションでも大きな失態を犯してしまった。内定が欲しいという気持ちばかりが空回りして、本来の自分が発揮できていないのではないかという焦燥感にかられる。友人が次々と内定を決めている事実もまた、彼を急き立てていた。
「あの、もしかしてあなたもS社を?」不意に女性が話し掛けてきた。
「ええ、そうですけど」内心の動揺を気取られないよう、平板な調子で橋本は相槌を打つ。現在位置を示すオレンジ色のランプ表示が『1』から『2』に移動した。
 あれ、と橋本はかすかな違和感を覚えた。直感的に何かがおかしいと思った。けれど、せっかく話し掛けてくれた女性の存在を無下にするわけにもいかず、適当に世間話を続けた。
 女性もこのビルまで到着するまでに何度か迷ったらしい。お互い迷ったもの同士ですね、と笑いあい、再びランプを見上げる。
「あれ、おかしいな」
 今度こそ橋本は違和感の正体を口にしていた。女性はどうしたんですか、と橋本の顔を覗き込むように言う。
 ランプ表示が『3』から移動する気配がない。にもかかわらず、静かな駆動音だけは箱の中で響いている。かすかな振動を感じ取ることもできた。
「故障、でしょうか」
 橋本といつまでも開かない扉を交互に見て、いよいよ女性が心配そうな表情を見せた。
 いけない、と橋本は思った。何かトラブルが起きたときは、男がしっかりとしなくてはならないのだ。そう自分に言い聞かせ、深呼吸をする。まず、携帯電話を取り出すと、圏外になっていた。これは橋本にとって想定済みだった。次に、操作パネルから非常ボタンらしきものを発見し、試しに何度か押してみる。
「動き、ませんね」
 女性も携帯電話に耳を当てていたが、やはりつながらないのか、すぐにバッグの中に仕舞ってしまった。
 橋本は非常ボタンをさらに何度か押し込んでみるが、やはり何の反応も示さない。
「……やっぱり、私のせいかもしれませんね」
 唐突に漏らした女性の呟きに、橋本は眉根を寄せた。冗談を言うにしても時と場所を選ばなければ、それは苛立ちに変換されていく。
「どういう意味ですか。管理会社とあなたに何か関係でも?」
「いえ、そういうわけではないんですけど……」
 つい詰問口調になる橋本に、女性は目を伏せた。
「まいったなあ。このまま閉じ込められたままだと、僕もあなたも面接の時間に間に合わなさそうですよ。事情を話せば、向こうもわかってくれるかもしれませんが」
「あの」やがて、意を決したように女性が顔を上げた。そこには決意の眼差しが宿っているように見えた。
「私は、あなたの就職活動がうまくいくことを願っています。この後、担当の方とお会いしたら、これを渡していただけませんか」
 お手数をおかけして申し訳ありませんが、と女性は何度も平謝りをする。手渡されたのは、何の変哲もない、緋色のハンカチーフだった。特徴らしい特徴といえば、隅にイニシャルを象った刺繍があるくらいだ。
「あの、できれば後ろを向いていてくれませんか」
 有無を言わせない調子で女性が言う。素直に従うと、ありがとうございます、と女性は礼を告げた。首筋に何か暖かいものが触れた感覚に、橋本は身震いする。甘い匂いが、五感を鈍らせていく……。
 一瞬の浮遊感の後、扉が開く音で橋本は我にかえった。
 エレベーターは目的の五階に到着していた。狐につままれたような気分で、橋本は備え付けの鏡を見る。けれど、一緒に乗り込んでいたはずの女性の姿はどこにもなかった。
 握り締めていたハンカチは、どこか湿っているような気がした。
 後日、S社の面接結果を伝える電話が橋本にかかってきた。正直なところ期待をしていなかったが、採用と告げられて、橋本の声はつい弾みがちになる。
 しかし、社長から言づてを預かっているのですが、と人事担当者が声のトーンを一段落とす。その内容を聞くと橋本は、冷水を浴びせられた心地になった。
 ――あのハンカチーフは亡き妻が愛用していた品だが、君はどこでそれを拾ってくれたんだね? 私も前から探していたし、感謝するが、それだけが気になってね。
 入社後、社長に報告する機会があったので、橋本は女性に会った部分は伏せて、拾得したときの状況を話した。
 入社からしばらく経った今でも、面接日に起きた事はよく憶えていた。何度となく考えても結局答えは出なかったので、あれはそういうものだったのだろうと、橋本は納得している。今はただ、あんな素敵な女性がいたらと溜息をこぼす日々である。

(2012/12)
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