とまれ、少女は嫣然と笑む

 まるで伝言ゲームですね、と小春は深い溜息を吐き出した。その言葉を皮切りに、場の空気がいっそうの重みを増したように感じた。
 午後の図書室。貸切状態で広々とした空間の片隅に彼らはいた。四人掛けテーブルに一つ、空席を残して。しかしながらその空席は、今の彼らにとってひどく重要な欠落を意味していた。
 ――朝河夏海が、いない。
 ただ、ひとつ。たったそれだけの事実が、彼らの隙間に濃く、昏い陰影を落とす。その沈んだ面持ちは、窓の外に切り取られた造り物めいた快晴に比べて、奇妙でアンバランスなコントラストを醸し出している。まるで彩度さえも違う世界のようだ、と宏は思う。
 その異変に気づいたのは五日前のことだ。いつも快活で病気や素行不良と無縁だった夏海が、その日初めて学園を休んだ。それだけなら、杞憂するまでには至らなかったのだが、翌日、そのまた翌日と彼女は立て続けに登校しなくなってしまった。もしかすると何か重い病気に罹っているのではないかと心配した宏は、担任に欠席の理由を尋ねると、夏海の母親からただの風邪だと連絡を受けたという。その事実に、宏は拍子抜けをしたのだが、その次の朝――つまり一昨日から、学園に奇妙な噂が広まっていた。
 いったい何の話をしているんだ、と宏が悪友の加茂に訊くと、加茂は口元を歪めて、小声で囁いた。
「俺らがクラス委員長様のいけないウワサだよ」ともったいつけたその口調に宏は苛立ったが、昼食一食分の奢りと引き換えに、根掘り葉掘り聞き出すことに成功した。
 加茂の話をおおまかに抜粋すると次の通りである。
 委員長――すなわち件の夏海のことだが、加茂に言わせるとただの欠席ではないという。表向きは風邪で欠席ということになっているが、真相は別のところにある、と。なら、その真相は何だ、と宏が訊くと、加茂はポケットから携帯電話を取り出し、あるサイトを開いた。俗にいう裏サイトと呼ばれるもので、宏は利用したことがないが、学校に纏わる種種雑多で卑近な裏情報を匿名で交換し合っている人間がいるらしい。当然、内部事情に精通していることから、利用者は内部の関係者に限られるし、場合によっては仲間内にしか通じない暗号を用いて限定公開していることもあるだろう。加茂は慣れた手つきでリンクを辿っていき、一つの書き込みを見つけると、それを宏に見せた。
 宏はその画像にアッと声にならない驚きをあげる。加茂は人差し指を口に当てると、食堂内ではお静かに、とおどけてみせた。
 しかし、宏はそれどころではなかった。心拍数が狂ったように上昇し、その画面から目を離すことが出来ない、いわば釘付けの状態だった。
 該当の書き込みは次のように始まっている。
 >チョーうけるんですけど!!
 多彩な顔文字や絵文字、ギャル文字を駆使していることから、書き込み主は女学生と推測できるが、匿名掲示板においては性差も、職業も、年齢も、名声すらも、何の役目も果たさない。故に、無責任で、無秩序で、剥き出しの攻撃性を有していた。
 宏は、震える指で画面をスクロールしていく。理性は見てはいけないと警告しているにもかかわらず、身勝手な本能は真実を知りたいという建前を掲げつつ、野次馬根性を如何なく発揮していた。
 >つかこれやばくね? バレたら退学っしょってか逆に永久就職?(ワラ
 見るに耐えない罵詈雑言の数々。事実無根の中傷に宏は黒い感情を抱かずにはいられなかったが、ただ一つの“それ”が、悪辣で低俗な書き込みに絶対的な説得力をもたらしていた。
 ――これは、嘘だ。嘘に違いない。絶対嘘だ。
 宏は何度も頭を振って否定したくなるが、その何もかもを台無しにする、ひとつの致命的な真実。
 朝河夏海が、一糸纏わぬ姿で、首輪をつけられ、四肢を拘束され、犬のように這いつくばって、上目遣いで見つめる画像。
 そんなあまりに非現実的で扇情的な被写体の姿に、眩暈を覚えた。画素が荒く、どことなく焦点のぼやけた画像だが、見間違うはずがない。
 加茂は、茫然自失となった宏の手から携帯を抜き取ると、辺りを注意深く見回し、さらに一段声をひそめた。「俺さ、もしかすると、見たかもしれないんだ」
 主語を欠いた、不明瞭な物言いだったが、宏は弾かれるように顔を上げて、加茂を見た。
「そんな睨むなって。あのさ、宏も知ってるだろうけど、南芙蓉病院って廃病院あるじゃん。たしかこの前何かの雑誌で心霊スポットとして特集されてたっけな。まあ、それはどうでもいいや。その近くにさ、寂れた商店街があるじゃん。誰が利用してるのかわかんねえけど」
 加茂は何がおかしいのか、くつくつと喉の奥を鳴らして笑う。
「その商店街の通りで、見たんだよ、俺。委員長が歩いてるところをさ」
「……」
「嘘だ、とは言わないんだな」
 期待通りの反応が返ってこなかったからなのか、加茂が眉根を寄せる。宏は、頭の中の整理が追いつかず、混乱していた。すべてが作り話ならいいと思った。あの画像も、よく似た誰かを撮った写真、あるいは顔だけを巧妙に差し替えたコラージュかもしれない。俄かには信じられない。信じられるはずが、ない。
「という話を聞いたんだよ。姉貴から」
 加茂は肩を竦めた。そこでようやく宏はからかわれていることに気づき、加茂の皿からカツを一切れ奪い取った。結局、あの裏サイトで見た画像以外は、何が本当で何が嘘なのか、宏には判断する術も気力もなかった。
 そして、何事も起こらぬまま、二日が過ぎた。宏は、中添健太と雨宮小春に呼ばれ、休日の図書室にて相対していた。なるべくなら無人のほうがいいとの中添の判断で、図書委員長の立場を利用して、この場所で相談をすることに決めた。書庫の掃除をしたいという理由を通すことなど、優等生の小春には造作もないことだろう。
「ゲーム、だと」
 中添は、苛立ちを隠せずにいた。どろりと濁った両眼は、迂闊に反論しようものなら射殺してしまいそうなほどの剣呑な光を宿していた。「気に入らない。不快だ。何故よりによって――」
 ハッと口を噤む中添。宏はその様子を無感動に眺めていた。“よりによって”きたのは他ならぬ、中添自身ではないか、と思わずこぼしてしまいそうになる。小春は俯いて、そんな中添の憤怒の満ち潮がひくことをじっと耐えながら待ちつづけている。何度となく宏が見てきた光景だが、今日ばかりはそんな小春の態度に狡猾さと卑怯さを覚えずにはいられない。そんな態度を取ることで、自らに降りかかる責任を少しでも小さくできるとでも思っているのではないのか、と。
 中添は髪を掻き毟ると、宏の顔を凝視した。宏はその視線に耐え切れず逸らしそうになるが、それでは今しがたの小春と同じではないかと、すんでのところで踏みとどまった。
「お前が、やったのか」
 簡潔で、短絡的な言葉。この場合、返答如何に依らず、疑惑の眼は宏一人に絞られたことを意味している。心なしか、宏を心配そうに見上げる小春の表情が安堵に彩られたように見えたのは、穿ちすぎだろうか、と宏は思う。
 もとより、此処に招かれた時点でこの展開は予期していた。罪を犯したものは、罪の所在が明らかにならないと落ち着かないものだ。故に、罪人は咎人《スケープ・ゴート》を血眼になって探し出そうとする。すべての贖いを押し着せるために。
「どこまで売った。おれたちのことは。あの豚は今何処にいる」
 矢継ぎ早に詰問を浴びせる中添。この間テレビのドキュメンタリー番組で特集していたドラッグ中毒患者を、宏はふと連想してしまった。朝河夏海という薬に溺れた、一人の哀れな男。そして、その哀れな罪人の所業を黙認している自分――やはり、俺も此処にいる限り同じ穴の狢なのかもしれないなと、宏は自嘲の笑みを内心でこぼした。
 宏がいずれについて何も知らないと答えると、中添は予想外にそれ以上の追及をせず、腕を組み、考え込み始めてしまった。小春はそんな中添の様子を横目で確認すると、テーブルから身を乗り出すようにして、宏に話し掛けた。
「宏くんは本当に何も知らないんですか。ただのひとつの手掛かりも?」
 宏は頷く。小春は本気で宏を疑っているわけではないのか、そうですよね、とあっさりと引き下がった。その代わりに、自分のクラスで耳にした、夏海に関する噂を話し出す。
 内容自体に新鮮味はなかったが、どうしてこういう話には決まって大仰な尾ひれがついてくるのだろう、と宏は苦笑した。どこかの大富豪に買われただの、閉鎖病棟に収容されただの、新興宗教に入信しただの、真贋の判断を全放棄した流言飛語が飛び交っている。それは宏のクラスでも同様で、ましてや品行方正で通っていたクラス委員長が突如として失踪し、不登校になれば、嫌でも話題に上る。
 宏があの画像を見て驚いたのは、あれが中添たちのせいでないことに対してだ。もともと彼ら四人は、仲の良いクラスメイト同士だった。それが、こういう関係性に変容してしまうことなど、誰が予想など出来るのだろう。きっかけはささいなものだ。朝河夏海はすべてにおいて非の打ち所がなく、人格者で、友達だったからだ。それが、雨宮小春の劣等感を増幅させた。何につけても夏海に勝るものなどない。宏から見ればそんなことはないと思うのだが、小春自身がそれを重荷に感じていた。学園生活も早いもので、来年には三年目を迎えようとしている。引っ込み思案のきらいがある小春が新しい人間関係を築き上げるには、些か機を逸した感がある。
 だから、狡猾に毀した。
 端から見れば、誰もが四人を友達と疑わない関係に擬態しつつ、夏海の心を少しずつ、だが、着実に、穢していったのだ。中添の、妄執ともいえる行為の数々によって。中添は小春に恋愛感情を抱いていた。それが、彼の判断力を極限的に鈍らせたのだろう。
 すべては、小春のために。そんな免罪符を掲げながら、夏海を蹂躙する。ある意味では、小春は中添にとってのファム・ファタールともいえる。
 始めはささやかな悪戯程度だった夏海への行為は、彼女が屈服した時点で終わるはずだった。しかし、彼女は絶対に屈することはなかった。クラスメイトと明るく挨拶を交わす夏海が、人目のつかないところでは、人間のあるべき尊厳を奪われていたなどと、誰が信じるだろう。行為は次第に苛烈さを増し、性的な要求さえも受け入れられるようになった。それが余計に中添の怒りを買った。時に、目を背けたくなるような暴虐の限りを尽くしたとも、咽び泣く小春の口から伝え聞く。 
 そこへきて、この裏サイトでの流出騒ぎだ。中添の非人道的な行為は、夏海を辱めることのみに心血を注いでいたが、公共の場において行為を知らしめることを善しとしなかった。客観的に見れば、どちらにも大差なく悪そのものであるのだが、中添はその違いに拘泥した。だから、中添が自ら画像を流すはずがなく、故に、宏に疑惑の眼を向けた。もし、仮に外部犯の仕業であるとするならば、それはそれで中添にとっておもしろくないのだろう。
 宏は、窓の外の不自然な青に目をやりながら思考を整理する。もし、外部の誰かが意図的に流したファイルとするならば、それはこの三人への脅迫行為なのかもしれない。どう隠蔽したところで、気づく人間は気づくものだ。そんなXの、一時の感情に身を任せた義憤か、はたまた別の目的か。どのみち、宏が傍観者でありつづけることなど出来ない。地獄行きの列車には、窓も、停車駅も、ブレーキもないのだから。
 夏海の家に行くぞ、という中添の提案に否応無く従うほかなかった。
 朝河夏海の自宅はうらぶれた住宅地のはずれにあった。此処があの委員長の住んでいる場所だと一度で信じられる人間などいるはずもない。宏もそのひとりだった。学園最寄の駅から電車で、二度の乗り換えののち、寂れた商店街を通り過ぎて、さらにその奥の区画整理もろくになされていない、狭まった路地を右に左にうねりながら進んでいく。児童公園を横切り、古びた理髪店の傾いたサインポールが視界に入ったところで、角を曲がる。築数十年と推定できる、安アパート然とした外観の木造平屋が彼女の家だった。
 敷地外周の生垣には、場違いな華やかさを主張するかのように、ブーゲンビリアが咲いていた。それを見て宏は、ある日夏海から聞かされた話を思い出す。
 ――ブーゲンビリアって、どの部分が花びらか知ってる?
 何を当然のことを、と思い、鮮やかに色づいた部分を指差す。すると、悪戯が成功した子供のような顔をして、夏海は言った。
 ――あのね、外側の部分は全部飾りなんだって。中央の、ちっちゃくて白い出っ張りがあるでしょう。そこがこの花の本体なの。
 だから、正確には花びらはないの、と夏海は色とりどりの苞に触れながら得意げに解説していた。けれど、そんな彼女の稚さを残した横顔が、どこか憂いを帯びていたことを宏は強く記憶している。まだ、四人が知り合う前のことだ。
 ――何が本当のことかなんて、外から見たらわからないんだよ。本当のことはいつだってきれいなものに覆い隠されちゃう。でも……ううん。だから、わたしはこの花が好き、なのかもね。
 そう漏らした真意はわからずとも、それは宏の心の奥深くに小さなトゲのように刺さり、今も消えることはない。
 宏は千切れ雲を一面に浮かべた蒼天を、弛んだ電線越しに仰ぐ。あの蒼が美しいと思える人は幸福だ、と思う。いや、それさえも独り善がりの感傷か。
 二度と手の届くことのない過去を顧みていた宏は、チープで喧しい呼び鈴の音で我に返った。中添が二度、三度と立て続けに呼び鈴を鳴らすが、本人はおろか、家人が出てくる気配さえなかった。
「留守なんでしょうか」小春が小さく呟く。しかし、中添は構わず扉を何度もノックする。どれだけ時間が経っただろうか。喉が粘つくような、ひりつくような張り詰めた時間を経て、ようやく家人が扉の奥から姿を現した。血色が悪く、頬の痩せこけた女性だ。家人は寝巻きのまま、寝癖のついた髪を直そうともせず、半開きのドアから寝ぼけ眼を宏たちに向けた。
「あの、どちらさまでしょうか」
「突然訪問してしまってすみません。僕たちは芙蓉学園の学生なんですが、朝河さんの体調が思わしくないということで心配になってお見舞いに来ました。失礼ですが、朝河さんのお母さん、ですよね。今朝河さんは家にいますか」
 夏海の母親と呼ばれた女性はあいまいに頷く。中添の声が届いているのか、いないのか、三人をもう一度ゆっくりと見回すと、そうです、と消え入りそうな声で言った。
「そうです、というのは、夏海さんが今、此処にいるという意味で、おっしゃったのですか」中添が多少早口に訊く。そのことに彼自身気づいていないのか、外面では穏やかな表情を取り繕いながらも、背中に回された指が苛立たしげにリズムを刻んでいた。小春はいつの間に離れたのか、そんな彼の様子を遠巻きに眺めていた。
「それは、私にはわかりません」
「わかりません、とは」リズムが速度を上げていく。
「あの子がどこにいるのか、わからないんです」母親の瞳は、どこか茫洋としていた。
「家族なのにわからないんですか」
「家族だから、わからないんです」
 わからないんです、と母親は念仏のように幾度となく繰り返す。中添は肩を竦めると、わかりました、と言った。
「申し訳ないですが、今日はお引き取りいただけないでしょうか。せっかくお見舞いにきてくれてありがたいのですけれど」
「いえ、こちらこそ突然押しかけるような形になってしまい、申し訳ありませんでした。それでは失礼します」
 扉が閉ざされるとともに、チェーンをかける音が重々しく鳴り響いた。それは拒絶の余韻をいつまでも残すように、宏には思えた。
 敷地を出るなり、中添は振り返って舌打ちをこぼす。
「あのババア、しらばっくれてるんじゃないだろうな」憤りがこみあげてきたのか、道端に転がっていた空き缶を前方に勢いよく蹴り飛ばす。衝撃で拉げた缶は弧を描き、側溝に耳障りな音を立てて、落ちた。
「ダメだよ、健太くん。そんなこと言っちゃ」
 小春が宥めるように中添のブレザーの裾を引こうとすると、中添はそれを乱暴に払い除けた。「うるせえ、黙ってろ」
 返す言葉もなく、小春は俯き、目を伏せる。中添はそんな彼女の様子に気勢を削がれたのか、弁解じみた謝罪をすると、今度は宏に矛先を変えた。いや、或いは、予め用意していた科白なのかもしれないとさえ思う。その疑惑には不変の結論がついて回っているのだから。
「さて、案内してもらおうか」
 案内、と宏は鸚鵡返しに復唱する。
「とぼけても無駄だ。お前があの母親をどうにか言いくるめて、あれを安全な場所に匿ってるんだろう。おれには賢明な判断だとは思えないがな。このままではまず卒業できないだろう。それに、将来に響く。あと一年半の我慢じゃないか。それで夏海は救われる。何か間違ってるか」
 まるで善人が口にするかのような言葉を中添は平然と並べ立てていく。一分の隙もない正論だと言わんばかりに。虫唾が走るほど正論だ、と宏は笑い転げたくなった。中添は反論できない宏を見て、愉悦の表情を口元に浮かべた。その口が今にも裂けて、中からおどろおどろしい魔物が舌を割って這い出てくるのではないかという妄想に囚われる。しかし、魔物は姿を現さず、代わりに、
「そうだ、救われるんだ。救われるという希望を捨てない豚が、おれは好きなんだ」
 人間という名の業が、現出していた。
 何処まで行っても救いようのない、牢獄の青の下、決して混ざり合うことのない黒雲が立ち込めていた。
「あ、あの、二人とも、これから雨降りそうですねっ。傘持ってくればよかったなあ……」
 あからさまに明るい声色で小春は、暗灰色がにわかに勢力を増す空に手を翳した。空回りの気遣いに端を発する誤魔化しか、はたまた不可逆に変容した現実からの逃避か。どのみち、逃げ延びることなど出来ないのだ、と宏は空疎なやりとりを眺めながら思う。原因と結果が幾重にも絡まりあって、現在がある。その根源をほどく気力も、覚悟も、方法もない、今となっては、すべてが無意味な思索だ。
 商店街まで三人は戻ってきた。並び立つ専門店の、赤錆が目立つシャッターは半分ほど閉じているか、開いていてもまるで客足の気配がない。生きながらにして死んでいる、終末の世界を彷彿とさせた。
「おい、宏」
 先頭を歩いていた宏を、中添が呼び止めた。宏は肩越しに、手をつないで歩く二人に目を向けた。成る程、二人の様子だけを見れば、いたって健全な恋人同士に見えなくもない。
「これは何処に向かってるんだ。駅とは逆方面だよな。俺たちはただお前についていってるけどさ」
 何処に向かってるとは上手い方便もあったものだ。反吐が出るほど陰湿な方法に宏は嫌気が差した。夏海の居所を知っていると疑っている――中添にとっては確信と同義だろう――中添は、宏を先頭に立たせながら、その実、駅へ戻る道を巧妙に断とうとしているのだ。さながら、鉱脈の発掘に用いるダウジング・ロッドの役目だ。おそらく中添は背後から“鉱脈”に反応する宏の一挙手一投足を監視しているにちがいない。絡みつく視線は、湿度と相俟って、宏のシャツに不快な汗を纏わせた。
 宏は、わからない、と答えた。その途端、勢いよく襟首を掴まれ、体勢を崩しそうになった。辛うじて踏みとどまり、振り返ろうとしたところに、中添の熱をもった息が至近距離で首筋に当たる。
「あのさあ。さっきから下手に出てるわけ、こっちはさ。言わば、友人に対する最上級の誠意だよ。それをさあ、宏。お前は無下にするわけ? しちゃうわけ? ねえ、答えてよ。日本語、わかるよね? 答えろ、早く」
 中添の白い顔が紅潮していく。まるで酔っ払いの赤ら顔のようだと宏は場違いなことを考えてしまった。アルコールの臭いを鼻先に突きつけられたような不快感が込み上げてくる。そうしている間にも、襟は引かれつづけ、ぎりぎりと頚動脈が圧迫される。小春がそれを止めようともがいているが、中添の細腕一つでいともたやすく抑え込まれていた。或いはその行動さえも予定調和なのではないか、と疑心暗鬼になればなるほど、底知れぬ深みに落ちていく予感がした。
「小春、こいつに優しくする必要なんてないぜ。こいつは適当に歩き回っていればそのうちに諦めてくれると思ってる卑怯者だ。まさか、最低限の義も尽くせない男だったとはなあ。心底がっかりしたよ。お前は、まだ“こっち側”の人間だと思ったんだけどなあ。最後にもう一度だけ訊く。朝河夏海は、今、何処に隠れているんだ。言ってる意味は、わかるよな? 小学生でもわかる簡単な質問だぜ? まさか、わからないなんて答えないよなあ? わからないで済むなら、科学なんて要らないぜ?」
 冷酷、傲岸、嗜虐、残忍。詭弁さえも理を捻じ曲げて押し通すその妄執に、宏は射竦められるほか、なかった。荒々しく吐き出される息が、中添のものか、宏のものか、混ざり合ってわからなくなる。意識が混濁し、ひゅう、ひゅうと断続的に鳴る音が呼吸だと気づくのに、多少の時間がかかった。それが宏自身の吐き出す息だと、わかった途端に、脳が、意識が、混乱をきたした。
 殺される、と直感的に思った。中添の姿形をした化け物に。中学時代はサッカー部のキャプテンをつとめ、男女ともに人望の篤かった好青年の身体を乗っ取って。あんなに気遣いの出来た男が、青筋を立てて、爬虫類の目をしながら、友人を絞め殺そうとするわけが、ないのだ。お前は誰だ、と声にならない声で宏は問い掛けた。もう二度と友人の顔をした魔物が操縦桿を手放すことがないと知りながら、最後に残った“それ”だけは信じていたかったのだ。
 声が、した。絶叫にも似た女の声だ。小春があげた声だと気づいたころには、宏はその背を弾き飛ばされ、煤けたアスファルトの上に投げ出されたあとだった。
 咳込みながら、本能が酸素を無我夢中に貪る。痛みを訴える全身を堪えながら顔を上げると、中添が草原の猛獣を思わせる無駄のないフォームと速度で、通りを遠ざかっていくところだった。そのだいぶ後ろを、小春がツーサイドアップの髪を揺らしながら、今にも躓きそうな足取りで追いかけている。小春は一度だけ宏の方を振りかえると、両手を胸の前で合わせて、小さく頭を下げた。
 宏は、二組の足音が聞こえなくなると、よろよろと手近の電柱を支えに立ち上がり、制服に付着した汚れを払った。
 と、その時、右ポケットに微かな振動があった。携帯電話を取り出し、差出人を確認すると「雨宮小春」とあった。慌てて文字を打ったせいか、誤変換が散見されたが、本文は小春らしく、丁寧な口調を保っていた。
 >宏君はなっちゃんを助けてあげてください。私もがんばってみます。
 言われなくても、と思ったが、結果として自発的に行動を起こしたことなどあっただろうか、と自分自身に対して懐疑的になる。ともあれ、小春の気遣いに宏は胸中で感謝をした。
 二人は一丁先の角を曲がっていった。その先にあるのは、廃病院だ。宏はしたたかに身体を打ちつけた痛みに顔を顰めながら、後を追った。
 南芙蓉病院は大通りから三丁ほど先にある、神社の裏手にある細道を抜けた高台に、ぽつんと存在している。病院、と銘打たれてはいるが、個人経営の、どちらかといえば診療所と呼ぶのが相応しい外観だったことをおぼろげながら思い起した。子供の頃、この近辺で遊んでは、大人に怒られた記憶が宏にはあった。高台へと続く急勾配の石段を登っていくと、斜面には、もはや管理を放棄されたと見間違えるほど、ごく小規模な墓地があった。苔むした墓石は土色に馴染み、風化が進んでいる。その周りを取り囲む、鬱蒼と茂る柳が、湿気混じりの風に揺れながら手招きをしているように見えた。先ほどまで薄っすらと照っていたはずの日差しは、既に翳っていて、今にも雨が降り出しそうな気配を漂わせている。
 石段の頂上に辿り着く。『私有地につき立入り禁止』と書かれたロープを跨ぎ、しばらく道なりに進むと、土の匂いがいっそう濃密になった。三階建ての、煤けた矩形の建造物は、当時と変わらない状態で残存していた。しかしながら、周囲を取り囲む雑草は宏の背丈よりも高く生い茂っていて、とても正面から近づける状態ではなかった。遅れを取ってしまったが、小春が手摺りにしがみつきながら石段を登っていく姿が見えたので、この近くに二人がいることは疑いようもない。
 そこに、怒号が響いた。野太い男の声は、中添が発したようだった。その直後に鈍い打撃音が続く。宏は唾を飲み込むと、背を屈め、気配を殺して音の発信源に近づいていった。
 慎重に慎重を期して、拉げたフェンス沿いに裏口へ回り込む。ひときわ背の高いシルエットを探して、目を泳がせていると、絶叫が耳をつんざいた。中添と小春が口論をしているようだった。二人は、病院の中――おそらくは待合室の辺りか――にいた。粉々に砕けたガラス片、散乱した長椅子、散らばった書類、横倒しになった本棚、スプレーで落書きされている薄汚れた壁面、その中で対峙する男女の影があった。此処からでは、内部は薄暗く、詳しい状況が判然としない。宏はできる限り窓枠に寄ってしゃがみ、会話に耳を欹てた。
「そうか。なら、もうこれで最後だ」
「ほんとうに?」鼻を啜らせながら、小春が言った。
「ああ、小春を困らせるのは俺の本望ではないからな」
「わかりました。その言葉、信じます」
 それきり、一触即発の張り詰めた空気は霧散し、辺りに奇妙なまでの静寂が訪れた。
 ぽたり、と。宏の頭上に冷たい雫が落ちる。ああ、雨かと思う間もなく、それは加速度的に勢いを増して降り始めた。雫の群れは雨樋を伝って、剥き出しの腕を、服を濡らしていく。服の隙間にも雨粒が染み込んで、背筋に悪寒が通り抜けた。
 たまらず、腰を上げようとしたところに、ごく間近で叢を掻き分ける音がした。慌ててしゃがみ込む。
「風邪をひいたら、大変だもんな」
 中添だった。もう一人の腕を引いて、此処まで来たようだった。まさか気づかれたのか、と身構えたが、どうもそうではなかった。もう一人、細く白い腕と足を曝け出した、腰まで届くほど長い髪の少女が、幽鬼のように前髪で顔を隠しながら、立ち現れた。
 今度こそ宏は、アッと声を上げそうになった。否、此処に辿り着いた時点で如何なる状況も想定すべきだった。しかしながら、直にその場面に遭遇して、宏はすっかり心の平静を失っていた。
 朝河夏海が毀される過程を成す術もなく俯瞰する、自分。
 己の無力さを思い知らされる現実を直視するのが、怖かった。心の内側では、幾度となく夏海を救い出すシミュレーションを入念に行っていたはずなのに。現実の自分は何一つ、変えることが出来なかった。絶対的な汚穢に反逆の狼煙を上げることさえ叶わない。今、視界を霞ませるほどに降りしきる雨が鉛に変わればいいのにと思った。この醜悪な肉に鉛が堆積すれば、自分が身動き一つ出来ない卑怯者であることに名分ができるから。だが、現実は連綿と続いていて、幾ら希おうとも、世界を変える力なんて得られるはずも無い。
 夏海は、下着だけを身に纏っていた。二の腕の一点に、握り拳大の青痣が残っていて、痛々しい。何度も、執拗に打擲されたのだ。腕が上がらなくなるほどに。あんなに好きだったバスケットボールも、ある日突然止めてしまった。クラスメイトには、気まぐれでやめたと話していた。今、不意打ちで飛び出せば、敵うだろうか。中添は宏に背を向けている。その無防備な首筋に突き立てれば、中添は絶命するだろうか。答えは否だ。サッカーをやめたとはいえ、両者の運動神経には雲泥の差があった。首尾よく不意をついたとして、返り討ちに遭うか、軽傷を与える程度が関の山だろう。
 中添は、指をぱちんと鳴らすと、さも当たり前のように告げた。
「此処で脱げ」中添の命令は、鋭利で直接的な暴力だった。夏海は僅かな逡巡の後、微かに首を縦に振り、唯々諾々と命令に従った。
 信じたくなかった。こんな嘘のような現実がまかり通る、狂気の世界があることに。それが、かつて友達と呼んでいた関係の成れの果てということに。釦の掛け違えのように隣り合わせで共存していることに。
 叩きつける雨音に混ざって、布の擦れる音が、ひときわ大きく鳴り響いた気がした。その行為の後に、夏海が、夏海そのものの姿形で、夏海であることを棄てたことを、蚊の鳴くような小さな声で紡いでいく。
 中添が、獣じみた唸りを鳴らし、鷹揚に頷いた。その意識が、狙い澄ましたように宏の潜む叢へと向けられる(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)
 しまった――と思う間もなく、宏は乱暴に立ち上がらされ、髪を掴まれたまま、夏海の真正面に至近距離で向かい合う格好になった。
「ギャラリーのまんまじゃ、辛いだろうと思ってな。ほら、じっくり見ろよ。見たかったんだろ。わかってんだよ」
 裸身が、そこにあった。大粒の白雨に濡れそぼりながら、きめ細やかに弾き返す瑞々しい肌は、美術館に展示された芸術品を思わせた。或いは、目の前にいる彼女が剥製で造られた精緻なレプリカではないかと信じたくなるほどに。しかし、吐き出される白い息が、微かに上下するなだらかな胸が、ほのかな桃色に染まる肌が、小刻みに震える両の足が、それが本物であることを雄弁に物語っている。
 否応無く、彼女の華奢な肢体に釘付けになってしまう。それこそが中添の悪意に手引きされた愚行だと理解しながらも。ただ、彼女が如何なる嬌態の徴も見せていないことに、宏は胸を撫で下ろした。
 夏海は、“堕ちて”いない。
 そんな可能性に、一縷の救いを求めてしまうのは、愚かだろうか、と宏は自問する。
 この驟雨と同じく、いつか嘘のように晴れ上がったりしないだろうか。あの、牢獄じみた、息の詰まるような青ではなく。
 しかしながら、往々にして現実は壁を隔てたように、遠い。心から意思に、意思から言葉に、言葉から行動に、行動から疎通へと変換するまでに、幾つもの紆余曲折を経なければならない。その過程に於いて、人は誤解し、齟齬が生じ、擦れ違っていく。
 まるで伝言ゲームですね、と図書室で小春が口にした言葉を思い出す。
 成る程、だから人は諍い合うのかと、連綿と続く歴史に宏は屈服せざるを得なかった。
 宏の様子をじっと食い入るように見つめていた中添は、唇を軽薄に歪めると、ポケットから黒革のチョーカーと、四尺ほどの長さの紐を取り出して、足元に放り投げた。「これを着けろ」と、顎で示す。
 その意味するところがわからず、しばし宏は立ちすくむ。
「散歩の時間だ。ほら、連れて行ってもらいたそうな顔をしてるぞ。よかったなあ、害のなさそうな“ご主人様”で」
 ご主人様の部分をことさらに強調して、中添が夏海の耳元で囁くように言う。前髪の間から覗く色素の薄い瞳は、ただ、灰色の情景を無機質に映すだけだった。その瞳が純粋な懼れに彩られていたなら、或いは声を荒げていたかもしれない。しかし、
「ほら、ご主人様。早く着けてやれよ。何事も経験だぜ? 新しい世界が開けたりしてな」
 宏は唇を噛み締めながら、中添の命令に従うだけの人形とならざるを得なかった。
 石段を下りると、雨足がやや弱くなった。それでも、まだ降り足りないのか、西の空が薄明るくなる兆しがない。中添は二人の様子を上から見張っていたが、路地を曲がると、それ以上、尾行してくることはなかった。
 最後に大きく振り返り、追っ手の気配がないことを確認してから、上着とスラックスを脱いで、急いで夏海の方に押し遣る。
「あ、ありがとう」
 宏は大げさに頷き、彼女から背を向ける。夏海は小さく礼を述べると、そろそろと受け取った。
 充分な時間が経ってから、宏は背を向けたままぽつりと謝罪した。
「ひろくんは何も悪いことしてないよ」
 夏海は何でもないことのように、そう言った。
 どうして、と問い質したくなる気持ちをどうにかこらえる。どうして、彼女はそんなに気丈でいられるのだろう。
「だって、悪いのは私だもの。だから、謝る必要なんてないよ。ひろくんも、はるちゃんも、そして勿論」と、そこで言葉を切る。吐き出した息に、苦笑の気配が混ざった。「あの人はね、弱い人なの。弱いから、こういうやり方でしか自分を保てない。もう、誰もあの人を救えないのかもしれない。心って誰にも見えないものだから」
 理解できない、と宏は呻く。理解も納得もできない、捻れた世界の話を聞かされている気分だった。けれど、メビウスの輪のように元通りの状態へと糺すこともできない。今のままでは、捻れたまま明後日の方向へ不時着する未来しか見えない。だから、
「だから、ごめんね」
 この街を出よう、と予め用意していた科白が、墨色のアスファルトに吸い込まれていく。最初からそのような虫のいい結末など用意されるはずがない、と宣告するように。
 夏海は、丁寧に畳んだ上着とスラックスを素早く宏に手渡すと、ぺこりと頭を下げて石段を駆け上っていった。しばし、華奢な背中を追うことさえ出来なかった。
 すべては無駄な足掻きだったのだろうか。
 止まない雨と相俟って、虚脱感が押し寄せてくる。髪や肩口に纏わりつく細かな雨粒を振り払う気にもなれなかった。最初から逃げるつもりだった。夏海と二人で、往く宛てもなく、何処か遠くへ。先のことを考える余裕はなかった。そう、五日前の火曜日に“約束”したはずだった。日曜になるまで待っていてほしい、と。
 結局彼女は、宏を信じきっていなかったのだと、改めて思い知らされるだけだった。けれど、それも当然かと納得するだけの根拠が歴然たる事実として存在する限り、宏は夏海のよすがになることもできない。罪の傍観は、罪への荷担と同義――そんな単純な道理さえ忘れてしまうほど舞い上がってしまった自らの愚劣さに、絶望した。やはり罰を下されるべきは、この醜悪な肉塊と内に蠢く卑小な魂なのだ、と宏は確信を深めた。
 夏海が望まずとも、この罪が拭えずとも、夏海を連れ出すしかない。
 たとえ、刺し違える結果になったとしても(、、、、、、、、、、、、、、、、、、、)
 見上げた先には、煙ったように視界が霞んだ石段。宏は服を整えると、底なしの奈落に落ちていく心境で、傾斜のある段差を登っていった。
 湿った草木の匂いに顔を顰めながら、重い足を引き摺るように廃病院へと進めていくと、周囲の空気が一変した。胸騒ぎのような焦燥感にかられながら、人の気配を見逃すまいと、宏は神経を尖らせる。もしかして、もう此処には誰もいないのではないだろうか、中添が二人を連れ去ってしまったのではないだろうか、そんな妄想に囚われてしまいそうになる。だが、と宏は頭を振る。中添はこの廃墟で宏を待ち構えている、そんな確信があった。
 裏口からガラスの割れた窓枠をくぐって、病院内部に侵入する。先ほど二人が口論をしていた待合室の辺りだ。息苦しさに息を吸った途端、埃とカビの臭いが鼻についた。足を進めるたびに、ザリ、と不快な音が鳴る。照明器具の破片や堆積した土埃、剥がれ落ちたコンクリートの欠片が、そこかしこに散らばっていた。視界が暗所に適応するまでに多少の時間を要する。宏はポケットからカッターナイフを取り出し、切れ味の鈍い刃を剥き出しにした。
 中添が――あるいは中添に脅迫された小春が――柱の物陰に潜み、奇襲を仕掛けてくるかもしれない。そのための対抗手段がカッターナイフでは心許ないが、ないよりはマシだろうと、宏は常日頃から護身用に持ち歩いていた。皮肉にも、こんな場面で使うことになるとは宏自身、思いもよらなかったが。
 徐々に薄闇に慣れてきた目で、周辺を見回すが、これといった異変は見当たらない。携帯電話のライトで辺りを照らせば、みすみす居所を教えるだけだろうと判断し、壁伝いに手探りで二階への道を進んだ。
 二階へ到達する。宏の記憶が正しければ、このフロアには病室が並んでいるはずだ。無人のナースステーションから談話室を通り、両側に引き扉の並んだ廊下へとやってきた。一つ一つ病室を確認するのは骨の折れる作業だが、その内半分程度は、扉自体が取り外されていたり、壊れているのか、閉まりきっていない状態だったので、外から様子を窺うことができた。足早に扉のそばへ忍び寄り、内部の様子を確かめたが、いずれにも誰かが潜んでいる様子はなかった。残るは、三室の病室と、三階、屋上のフロアのみ。宏は深呼吸すると、手前の病室から、順番に扉を開けていくことにした。しぜん、カッターを握る手に力が篭る。中添の悪行を止める千載一遇の機会を逃してはならない。まして宏が原因で夏海にとばっちりが掛かることだけは絶対に避けたい事態だった。確実に“仕留める”、それだけを考えて宏は意識を集中させる。
 錆びた取っ手に指を掛けて、一気に開く。シーツの乱れた簡易式ベッドが三台、それにパイプ椅子が二脚、立て掛けてあるだけだった。いずれも長い間、人が使っていた形跡はなく、隅には蜘蛛の巣が張られており、薄っすらと埃が積もっていた。その斜向いの部屋は調度品さえなく、がらんどうであった。
 残るはひとつ。此処にいなければ、上にいるのだろうか。宏の胸中には疑念が渦巻いていた。しかし、何もかもを放り出して戻るという選択肢はない。宏はどうしても夏海を諦めることができなかった。中添と同じく、亡霊に取りつかれた一人として。
 最奥の部屋の前に立つ。ふと、強烈な異臭が鼻にこびりついた。その筆舌に尽くしがたい悪臭に、全身が総毛立つほどの慄然とした予感を覚えた。けれど、意に反して引き戸は滑らかに流れていく。
 空気の密度が増す。宏は内部の様子を俯瞰した。目の当たりにしているものが現実だと認めたくないが故に、第三者の視点で俯瞰している錯覚に陥ったのだ。視点が、舐め取るように、薄闇に広がる光景を仔細に焼き付けていく。
 まず、左手にある壁が目を引いた。そこには不良の溜まり場によくある、スプレーで描かれたグラフィティアートがあった。だが、壁面に散った夥しい量の飛沫が、拙劣な落書きを、ただ一色、赤黒く塗り替えている。生物が生物たる活動を維持するために不可欠なそれが、内側を喰い破って、あぶくを吐き出しながら垂れ流され、噎せかえるほどの濃密な臭気を撒き散らしていた。壁際には他の病室と同じくベッドがあった。ベッドには、一人の、芙蓉学園のブレザーを纏った少女が仰向けに横たわっていた。解かれたリボンが、埃まみれの床に落下して、端をだらしなく垂れ下がった指が掴んでいる。まるで、凝固しているかのように。薄汚れたシーツに滴った鮮烈な赤は、少女の首から上に集中していた。足元に、固い、サッカーボール大の何かが当たって、ごろりと鈍い音を立てながら歪に転がっていく。その楕円体には、結び目が二つあった。雨宮小春が、子供っぽいからやめたほうがいいとからかわれながらも、意地を張って続けていた髪型に似ていた。それが壁にぶつかり、転がることをやめて、虚空を見た。否、もうその両眼は何も見ていなかった。ただ、苦悶の表情が、顔色の悪い肌に刻まれていただけだった。
 どうして、と声が漏れた。理解の範疇を、一切合切のプロセスを跳躍した酸鼻をきわめる光景に、絶句する以外の術を知らなかった。膝から力が抜け、股間を生暖かい液体が染み出して滴り落ちていく。それはとめどなく繊維の隙間から漏れ出し、罅割れたリノリウムの裂け目に流れ込んでいく。鉄に、アンモニアの臭気が混ざった。その事実に、宏は惨めさと共に安堵さえ覚えた。全身の震えは恐怖という感情に起因するのだと、ようやく理性が状況を嚥下して、理解した。それと同時に、何か酸っぱいものが喉元からこみ上げてきた。刹那、激しい嘔吐感に見舞われて、吐瀉物が撒き散らされていく。それが透明な唾液の糸に変わっても、吐き気と悪寒が止むことはなかった。
 芙蓉学園のブレザー、この廃病院で言い争いをしていた少女、ガラクタのように無残に投棄された二つ結びの頭部――各々の要素すべてがひとつの絶望的な解答に収斂していた。宏はふらつく足取りで、乱暴に切り離された“かつて彼女だったもの”を丁重に拾い上げると、寝台の上の本来あるべき位置に戻し、丁寧にやわらかな髪を梳いて、手を合わせた。宏の頬を、熱いものが伝っていく。世界の理不尽さに、何もかもが元に戻らないことに、そして己の無力さに絶望した。この欠片をつなぎ合わせても、雨宮小春という少女は二度と目を醒まさない。此処に“ある”のに存在しない。何処にも存在しないのだ。
 ひた、と背後で静かな足音がした。その足音に、宏は反射的に振り返る。
「――――」
 そこには。血に塗れた大振りの鉈をぶら下げた朝河夏海が、立ち尽くしていた。採光窓から侵入した弱々しい光源が、夏海の四肢を病的なまでに青白く――血管の一筋々々さえも幻視してしまうほどに――浮き上がらせていた。足元から長く伸びた薄い影が、辛うじて生者であることを示唆していた。
 夏海は、茫洋とした眼差しで宏を見た。次いで、その視線が奥に横たわる少女に向けられる。するりと、鉈が手元からスローモーションのように滑り落ちた。
「ちがう……私、私はやってない。私じゃ、ちがうの……。信じて、ひろくん、お願い、しんじて」
 覚束ない足取りで、夏海が一歩、宏に近づいた。宏は思わず身を強張らせる。
 一歩、また一歩と。
 少女が宏を壁際に追い詰めていく。罪の在り処は私にはないと嘯きながら。そうではない、宏は彼女のことを信仰と呼べるほど信じているつもりだった。けれど、取り巻く状況が、夏海にとってこの上なく不利に働いていた。夏海には、動機がある。もしかすると、“このため”に廃病院へ戻ってきたのかもしれない。だとすれば、中添にも既に同等か、それ以上の惨劇が執り行われている可能性は否定できない。否定できないという論理の隙間が、宏の猜疑心を増幅させる。
「ひろくん、お願い、私の話を聞いて。これは、いったいどういうことなの? ねえ、はるちゃんは無事なの……? ねえ、答えてよ。ひろくん、ひろくんってば」
 夏海の細い指が、宏の肩におそるおそる触れた。
「きゃっ!」
 声が、漏れた。
 ――ちがう、そうじゃない、そういうつもりではないんだ。
 邪険に手を払い除けられた夏海の顔が、驚愕に染まった。ほどなくして、その表情が、怯え、哀しみに取って代わる。
 あ、と声を掛ける間もなく、少女は身を翻して、走り去っていく。嗚咽の余韻を、残しながら。
 ふたたび誰もいなくなった部屋に、静寂が戻る。そうか、と宏は今更ながらに気づかされる。夏海を信じきっていなかったのは自分も同じだったのだと。それで無条件に信じてもらおうと考えた己の浅はかさに、頭を抱えたくなった。こんな我が身こそが、夏海に天誅を下されるべきなのだろう。もはや、赦される時機はとうに過ぎた。
 宏は立ち上がり、鉈の柄を掴みあげると、出口に向かう。叩きつけるように降り続いていたにわか雨は、既に上がろうとしていた。
 廊下に足を踏み出すと、悲鳴が打ち放しコンクリートの壁を反響して、耳に届いた。夏海の発した声だった。宏は左右に首を巡らせると、声の発信源は一階からだと咄嗟に判断して、廊下を突っ切り、階段を駆け下りていった。
「遅かったじゃないか」
 果たして、その男は壁に背を預けたまま、悠然と宏を待ち構えていた。その傍らには、皮紐を柱に括り付けられ、力なく頭を項垂れたままの夏海の姿があった。
「散歩はお楽しみじゃなかったのかな? 飼い主を置いてひとりで逃げ出すなんて、ダメじゃないか、なあ」
 中添が、夏海の長い髪をぞんざいに掴んだ。やめろ、と宏は叫び、制止する。
「なんで止めるんだ、宏。命令一つもこなせない奴隷に価値があるといいたいのか。それとも、お前が粗相の責任を取ってこいつの代わりにお仕置きを受けると申し出るのか? いやはや、見上げた根性だなあ。まったくもって、ご主人様の鑑だよ、お前は」
 ふざけるな、と宏は声を荒げた。夏海を解放しろ。この人殺しが。頭に血が上るのを宏は止められなかった。無意識のうちに堰き止めていた言葉が、剥き出しの衝動に絆されたまま、吐き出されていく。
「人殺し? ああ、そういえばお前、物騒なモン持ってるじゃん」中添が肩を竦めた。この状況が心底楽しくてたまらないとばかりに、歪んだ笑みを浮かべたままだ。「そうか、お前が小春をバラしたんだな。おお、こわいこわい。動機は何だ。そんなにこの女を救い出したいのかよ。黙っていれば救われるって教えてやったのにさあ。で、どうするつもりなんだよお前は。俺もバラすのか。面白いなあ、やってみろよ、ほら」
 中添が、凭れていた背を離した。そのささいな挙動に、宏は圧倒的なまでの重圧を覚える。それが、中添と宏の差だった。
 お前がやったんだろ、と宏は辛うじてそれだけを吐き出す。最終防衛線を踏み越えられるわけにはいかないという矜持だけが、宏を支えるただひとつのよすがだった。
「俺が、小春を? 笑わせるな。冷静に状況を鑑みろよ、宏。今、この場面を誰がどう見たって、導き出される結論は一つだぜ。その鉈には、お前の指紋と小春の血液が付着している。今警察に通報したらどうなるかな。理解できるだろ、お前だってそのくらい」
「…………」
「まあ、いいや。お前はそこから最後のショーを指を咥えて眺めているんだな。もし、おかしな真似をしたら、こいつの命はない」
 中添は、足元から素早く出刃包丁を拾い上げると、夏海を後ろから羽交い絞めにして、白い首筋に突きつけた。そのまま、宏に武器の放棄と、両手を頭の後ろに組むように命令する。言われるがままに従うと、中添はせせら笑うように、宏を見た。
「俺はさ、宏。今とてもいい気分なんだよ。どうしてかわかるか。これからお前に消えない絶望を穿つことができる、その喜びに打ち震えてるんだ。本当の事を言うとさ、俺はお前のことが最初から嫌いだったよ。油断したらすぐにでも殺してしまいかねないほどに。だけど、安易にそうしたら、俺は長年の願いを成就できない。ならば、どうするか。こう決めたのさ、お前の一番大事にしているものを奪ってやろうとな」
 昏い情念に隈どられた双眸が、宏を凝視した。その眼球が空洞になっていて、どろりと黒く濁った涙が今にも流れ出すのではないかと、暗愚な妄念に絡めとられてしまいそうになる。中添の話は、独裁者の演説の如く、高らかに、誰かに言い聞かせるように、粛々と進んでいく。
「どうしてそんなにお前が憎くてたまらないのか、何度も俺は理由を考えたよ。だが、自ずと結論は一つに集約されていた。俺の父親に似ているんだ、その傲慢な態度が、な。ああ、その前に俺のことも少し話しておくか。俺は物心ついたときには、児童養護施設に収容されていたらしい。どうも両親という存在が救いがたい屑だったのが原因だったようだ。だがある時、化粧が濃く香水の臭いがきつい、母親と名乗る女に、俺はそこから連れ出された。薄汚い団地だったが、それなりに不自由はしなかった。女は夜に外出する事が多かった。その理由を尋ねると、ヒステリックに喚き散らしやがった。そんな生活が半年程度続いた後、そいつはのうのうと姿を現しやがったんだ。そいつは女の愛人を名乗った。だが、俺は幼心ながらに理解していた、その男がろくでもない屑だと。そいつが部屋に上がりこんでからの暮らしは、最悪だった。一日中、何処へも出かけず、酒ばかりを煽っては、気分次第で俺を殴った。女は、その光景を鬱陶しそうな目で見ているだけだった。ある日、男はふらりと姿を晦ました。ようやく地獄のような暮らしから解放されると思った俺は、認識が甘すぎたんだな。男は、小さな女の子を連れて帰ってきた。女の子は、いっさいの衣服を与えられていなかった。四六時中、あの男の慰み者にされていたんだ。俺は決心した。この男をどうにかしてぶっ殺してやれないかと、ね。
 結論から言うと、事自体は思いのほか上手く運んだ。上手く行き過ぎて、快哉を叫ぶ暇もなかったくらいだった。女の子をダシにして、人気のない林におびき寄せたところで、背後から脇腹を抉るように刺し、倒れこんだところに、手近にあった大き目の石を何度も叩きつけたら呆気なく絶命した。だが、俺はその成果に手応えを得られなかった。男の呼吸が止まったところまでは確認したが、何かの拍子で甦るのではないか、と恐怖した。いつまでもその化け物が俺の、俺たちの心を苦しめ続ける気がした。だから」
 と、中添は左手の親指で夏海の首を一文字に切るジェスチャーをする。
「知ってるか、宏。解体って、結構手間と時間がかかるもんなんだぜ。幸いにして、切れ味のいい代物だったからよかったものの。ともかく、あの屑の存在を跡形もなく抹消することに成功した俺は、心の靄が晴れるように感じていた。すべての元凶が世界から消えたことに、踊り出したい気分だった。だが、その後を追うようにして、女が自殺した。首吊りだった。遺書もなかった。俺と女の子は別々の家に引き取られていった。それからは、淡白な、何も思い出にも残らないような日々が続いた。たまたま、運動が得意だったからサッカー部のキャプテンをつとめた。どうやら人望はそこそこにあったらしい。滑稽だよな、体裁さえ繕っていれば、誰もが俺を“そういう”人間として認識する。所詮ヒトってのは外側しか見てないし、見えない動物なんだろうな。現代科学じゃ心を解剖できないしな。話が逸れたか。それから、滞りなく進学して、俺は出逢った。出逢って、しまったんだ」
 包丁の切っ先が、引き締まった腹部の正中線上をなぞっていく。腕の中に押さえ込まれていた夏海が身動ぎをした。
「俺はその少女に恋をした。体つきは丸みを帯びて、面差しはより綺麗になっていたが、見間違えるはずがなかった。あの時の、糞みたいな日々を一時期だが、ともに過ごした女の子、それが朝河夏海だった。あの頃のような暗さは微塵も感じられず、まるで醜い幼虫が羽化して美しい蝶に生まれ変わったかのような、その一挙一動に俺はすぐさま虜になった。クラスはちがったが、なるべく彼女と擦れ違える機会が多くなるように努力した時期もあった。そして、俺は、夏海に告白した。玉砕を覚悟しての、考えなしの告白だった。そして、案の定フラれた。けれど、夏海は友達としてなら、と言ってくれた。それで俺はすっかり舞い上がっていたのだろうな。今年、クラス替えが行われ、それが幻想だと知った。宏、他ならぬお前のせいで」
 そこで名前が出てきたことに、宏は動揺を隠せなかった。疑問符が頭を駆け巡り、思考が煩雑に絡まっていく。
「まさか、気づいてなかったのかよ。とんだ朴念仁だな。俺は、夏海に近づく目的で、それとなく同じグループに引き入れるために奔走した。だが、その度に、お前の名前がちらついた。どいつもこいつも、宏、宏、宏だ。どうやら、夏海も、小春もお前に気があったらしい。どんな男だと少しは期待してたんだけどな、心底がっかりだよ。俺は、お前に絶望を与える目的で夏海を嬲っているのに、ちっとも気がつきやしない。今日だってそうだ。わざわざお前らには散歩と称して逃げる隙を与えたのに、結局夏海は此処に戻ってきた。夏海からの好意に気づけないお前の傲慢さに、苛立った。挙句、小春とかいう女も宏を庇い立てしやがる。あまりに煩いから黙らせといてやったが」
 夏海からの明確な好意、その兆しがあったとすれば、とっくに逃げ果せているはずだ。否、もっと以前からそれに気づき、行動を起こすことだって出来た。お互いがお互いを信じきれないが故に招いた、最悪の結末。小春はそのとばっちりに巻き込まれたことになる。
 ――俺が、殺したようなものだ。
「いいな。その反吐が出るほど絶望した表情が見たかったんだ、俺は。さて、長い余興は終わった。いい頃合だろう。これを持て、落とすなよ」
 中添は、強引に夏海の手を取り、出刃包丁を握らせた。夏海は覇気のない瞳で、その先端を見つめた。
 危険だ、と宏の本能が警鐘を鳴らした。
「動くな、と言っただろう。芳一か、手前は。そこで、突っ立っていればいいんだよ。そんで、勝手に絶望してろ。お前の大好きな夏海と二度とまっとうな日常が送れないことに、な」中添は、夏海に向き直る。その横顔には、一瞬だけ、魔物から解放された面影があった。「俺を殺せ、朝河夏海。それで全てが終わる。お前が、自分を悪いと思うのなら」
 夏海が、意外なものを見るような目で中添を見た。そこに、怯えの色は見て取れなかった。
「躊躇うな。俺がお前の親父を殺したように、お前には俺を殺す権利がある。おまけに、結果論とはいえ、夏海には酷いことばかりをしてきた。赦せ、とはいわない。せめて、一思いに」
「できないよ」
 息を呑む音がはっきりと伝わってきた。中添が、信じられないものを見るような顔をしている。
「できないよ。私には、あなたに――お兄ちゃんに復讐するなんて。私は、お父さんも、お兄ちゃんも間違ったことをしてないと信じてるから」
「あんな屑の肩を持つのか」
「ううん、そうじゃなくて、それでも、お父さんは、たったひとりのお父さんだもの。そして、お兄ちゃんも。気持ちには、応えられなくても、私は」
「あいつの穢れた血が流れている俺なんだぞ、それでもお前は赦してくれるのか」
「ゆるす。きっと、ゆるすよ」
 迷いのない言葉だった。夏海から発される言葉の全てが慈愛に満ち溢れていた。宏はこんな夏海の態度をついぞ見ることがなかった。そして、その言葉が自分へのものでないことに、嫉妬した。
 中添の肩が小刻みに震える。握っていた拳が、力を失っていく。
「どうして、俺たちには同じ血が半分流れているんだろうな。そうでなければ、俺は」
 呟いた。
「うん、知らなければよかったね。本当のことなんて。知らなければ、よかった」
 その憂いを帯びた顔に、いつの間に晴れ上がってきたのか、黄金色の光が眩く差し込んでいた。それを見て宏は、幼い頃に交わしたブーゲンビリアの話をふいに思い出した。綺麗な苞で覆い隠されている真実は、時に人を不幸にすることもある。
「だから、ね。間違っているのは私ひとりなの。この世界に当てはめちゃいけなかったピース。そのせいで、みんなに、はるちゃんに、ひろくんに、お兄ちゃんに、迷惑を掛けた。もっと早くこうすればよかったのに、ね。ホント、馬鹿みたい」
「やめろ、夏海」
 ありがとう、そして、ごめんなさい。
 眩い光の中で、夏海は、裸の胸元に、鈍く光るそれを、突き立てた。
 黄金を纏った全身が、贖いを一身に背負うように、ゆっくりと崩れ落ちていく。
 光に、鮮血の赤が迸った。
 動かなくなった夏海を見ながら中添が、ぽつりと何かを呟いた。
 やがて、廃墟の外へふらふらと歩き出し、石段の辺りで、その姿がふっと消えた。
 宏は成す術もなく、一部始終を傍観していた。その罪を贖う機会を永遠に喪ったことさえも忘却して。
 生暖かい、夏海の体温に触れる。けれど、そこにはもう、夏海はいなかった。独りきりになった空間で、少女の湿った唇に口づけた。思いが伝わらない相手を冒涜することで、誰かに縊り殺されることを待つ、卑小な男が居た。少女は、ただ、安らかに微笑んでいた。
 
 /epilogue
 
 雨宮小春と中添健太の葬儀が執り行われてから、二ヶ月が過ぎた。窓の外に立ち並ぶ銀杏の木々は、すでに殆どが葉を落として、冬の到来を本格的に教えていた。教卓の横に設置された石油ストーブのまわりには、女子学生のグループが集まって、輪を形成している。
 宏は、欠伸を噛み殺して、代わりに溜息を吐き出した。この時期にもなると、進路志望票が配られて、どうしても将来と向きあう機会が多くなってくる。来月には、三者面談も予定されているらしい。時間は、少しずつ、だが着実に進みつづけていることを実感させられた。
 そういえば、学園内で中添たちの話題が上ることがめっきりと減った。人の噂も七十五日というが、想像以上に彼らが過去になっていることを宏は実感していた。
 当時、様々な飛語が交錯していたことを、思い出す。その中には夏海への中傷も含まれていたが、それを苦笑いで躱す余裕は、なかった。
「よう」
 物思いにふける宏の前に、一人の男子学生が腰を下ろした。因みに今は放課後で、大半の学生は教室を後にしている。加茂は、背もたれに顎を載せて気味の悪い表情を浮かべている。実際に、気味が悪いと口にしたかもしれない。
「まあまあ、そう邪険にするなよ。俺とお前の仲だろ」
「……」
「つれないねえ。でも、これを見たらクールで通ってる宏クンも穏やかじゃいられなくなるかもしれないけどさ」
 宏は、糸のように細い加茂の目を見つめた。その瞳の奥に妖しい光が宿っているような底知れない不快感を覚えたので、話だけは聞いてやろうと席に座り直す。
「まあ、そう睨むなよ。ただでさえ怖い目つきが余計怖くなっちゃうぞ。ちょっと話は変わるけどさ、委員長のアレってやっぱり本物だったのかな」
 アレとは、と問い返す。いろいろなことがありすぎて、それが何を指しているのか、わからなかった。
「ほら、あの、なんかエロい格好してた、アレだよ。やっぱりアレが原因で、彼女、転校しちゃったのかな。残念だよなあ。もう一度ご尊顔を拝みたかったもんだ」
 ああ、と生返事が漏れる。相変わらず加茂はつまらない話ばかりを持ち掛ける男だ、と宏は思った。卒業すれば関わることもないだろうが。
「だからさ、そんな彼女を独り占めしてる宏クンが羨ましいなあと思っちゃって、さ」
 は、と思ったよりも大きな声が飛び出す。ストーブを囲んでいた女子が、話を止めて、意識を一瞬彼らに向けたが、やがて何事もなかったかのように、囀りを再開する。
「どうしたんだ、宏クン。額に汗をかいてるぜ。暑いのか?」
 宏は首を振る。そして、加茂の真意を量りかねていた。
 いったい何を言いたいのだ、この男は。
 出方を窺うべく、沈黙を貫いて、一刻も早く話が終わることを願った。しかし、
「あ、でも百聞は一見にしかず、か。ちょっと待ってろ、今メール送るから」
 ほどなくして、右ポケットに微弱な振動があった。宏は携帯電話を取り出し、加茂からのメールを閲覧する。
 …………。
 宏は画面をぞんざいに閉じると、窓の外を見た。雪雲がどんよりと空を覆い尽くしていることに今更ながら気づいた。今夜には、降るかもしれないな。
 いくらだ、と宏は低く抑えた声で問う。
「さあね。誠意が見えればいいんじゃないかな。誠意って目では見えない部分だけどさ、あるとないでは大違いだと思うわけよ。あ、どうでもいいけど最近わりと金に困ってんのよね、俺。折角の取引相手は二人とも死んじゃったし。ま、いいけどね。その損失を補って余りあるほどの大口顧客が手に入ったわけだし」
 長い間、中添を蝕み続けた、あのおどろおどろしい魔物が加茂へと憑依したかのように、奇怪な笑みが口元に弧を描いて張りついていた。
「それにしても、委員長って何処に消えたんだろうな」

/了(11.10)

inserted by FC2 system