ナイーブナイフ
少年はナイフを求めていた。
それは子供から大人へ脱皮するための通過儀礼、或いは厳粛な儀式なのかもしれない。
「五九八○円」
骨董屋の主人は無愛想に告げると、後はもう興味なさげに錆色のナイフを桐の箱に収め、客に突き出すのみだった。
少年にとっておよそ六千円の出費は決して安くなかった。けれど、鈍く光る錆色を前にしたらそんな金銭感覚など瞬く間に消し飛んだ。
それほどまでに、少年の血潮は滾っていた。
骨董屋を後にすると、少年は学校の屋上に向かった。
“試し斬り”にはうってつけと考えたのだ。
はやる鼓動を抑え、桐の箱から慎重にナイフを取り出す。刃渡りは十二センチほど。お世辞にも切れ味のよさそうな代物ではない。
されど、少年は求めた。
曇天に覆い隠された“未来”を識りたい、その一心で。木製の柄を握りしめると、それは意外にも掌に馴染んだ。
軽く二度、三度と手首のスナップを利かせ振ってみる。ヒュッと空気が切り裂かれた。
その使用感にいたく満足した少年は深呼吸を一つすると、得物を持った右手を頭上に翳す。
そして、低く停滞する曇天を睨み付けた。
「教えてくれ。この胸を覆い尽くす不安への答えを……」
少年は空を一直線に薙ぐ。
すると、それまで鈍色だった部分がめくれあがり、赤く燃えるような空が顔を覗かせた。
夢中で四辺を切り取っていく。
まるで一枚の絵画のように。ルビー色の長方形が立ち現れる。
少年は大声を上げて笑い転げた。
あまりの可笑しさに。不確定な世界に。
ひとしきり笑い終えると、もっと識りたいという欲求に囚われ始めた。
胸ポケットから、一通の手紙を取り出す。
差出人の名はない。ただ一言『いつもこの時間に屋上で待ってます』と癖のある丸文字で綴ってあった。
以前の少年なら疑いに疑っただろう。だが、今の彼に迷いはなかった。
ためらいもなく手紙に刃を突き立てる。紙片から汗と香水の混ざった馥郁たる匂いが立ち込めるのと、屋上へつながる鉄扉が勢いよく開けられるのは、ほぼ同時だった。
「どうしてそんなひどいことをするの、やめてください」と悲痛な金切り声が響き渡る。
面識のない女子生徒だった。丈の長いスカートに、短く切り揃えられた髪。時代錯誤もいいところの真面目一辺倒な女の子。
彼は確信していた。
彼女を“切り取った”先に視える未来には、少年の姿が存在し得ないことを。
「悪いな。まだコイツは手放せないや」
(了、10.8)
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