ココロセツナ

「あのね、ココロが見つかったの」
 少女が友達に向かって言った。細い腕の中には雑種の仔犬が収まっていた。
「ありがとうお姉ちゃん。きっとご恩は忘れないから!」
 にこにこと笑顔を浮かべながら少女が友達の待つブランコまで戻っていった。砂場を大急ぎで駆けていく足音は弾むように軽かった。
 一仕事を終えた後の気分は悪くない。聖人や善人を気取るつもりはないが、良い行いをして感謝されるのは自分が社会の一員として認められたようで誇らしかった。

 心が読める。
 セツナは長年連れ添った愛犬と永遠の別れをしたあとに、自らの秘められた能力に気がついた。動物たちの瞳を真摯に覗き込めば、彼らが何を望んでいるのかを知ることができた。たとえばさきほどの少女の飼っていたココロという名前の仔犬は、公園から何百メートルも離れた交差点で発見した。運が悪ければはねられていたかもしれない。
 ココロのように飼い主がいる場合はわかりやすい。だが、望まれずに捨てられた動物の心を知る時は、セツナにとって最も辛かった。
 そんな彼らが発する声なき叫びは何よりも鋭く届いてしまうから。
 
 何ヶ月か経った雪の降る朝、セツナが集積場へ資源ごみを捨てに行く最中のことだ。うずたかく積まれたごみ山の中で異質な臭いが鼻にこびりついた。セツナが臭いの発生源に近づくと、何かがカサリと動く気配があった。
 雪を被って湿った段ボールを動かすと仔猫がうずくまっていた。焦茶色の毛並みは濡れぼそり、ところどころ抜け落ちている。そっと抱き上げても目を閉じたままでまるで抵抗がない。痩せ細ったアバラが浮き出て、骨ばっていた。
 セツナは足を滑らせそうになりながら自宅へ仔猫を持ち帰る。鍋で沸かしたペット用のミルクをアルミの平皿に注ぎ与えると、警戒はしていたがちびりと舐めはじめた。セツナはひとまず安堵する。
 その時、セツナの飼っている猫三匹が新入りを目ざとく見つけたのか、リビングに集まってきた。
「おいお前誰だ」
 とミケが目で誰何する。
 しかし、仔猫はいっさいの反応を示さなかった。シロがちょっかいを出そうとするのを、セツナは一喝して押しとどめる。
 たしかに、おかしいなと思った。
 仔猫は一切の感情を表に出さなかった。抱き上げて瑠璃色の瞳を覗き込んでも拒否することはないかわりに、何を考えているかも読み取れなかった。
 その日の夜、セツナは眠りに就くと妙な夢を見た。
 病院のベッドでチューブにつながれている患者のそばで、猫の親子が寄り添う夢だった。彼らは、入院患者が目覚めるのを待ちつづけていた。
 突然、糸の切れた人形のように親猫が倒れた。入院患者がベッドから消えた。親族らしき人たちが疲れきった顔で現れると病室から持ち物がなくなり白いベッドと仔猫だけが残された。
 ――殺してくれ。
 しわがれた声が枕元で聞こえたような気がして、セツナは跳ね起きた。震える全身をこらえて床下に視線を向けると、仔猫がブランケットから忽然と姿を消していた。
 白い息を吐きながら玄関のドアを開けて外に出る。雪が溶け残った道路の片隅で、焦茶色の仔猫が地面にへばりついていた。車に轢かれたのか、もう動くことはなかった。セツナはそっと仔猫を抱き上げると、自宅の庭に埋め手を合わせた。涙さえも凍りつきそうな早朝のことだった。
 その日以来、セツナは心を読めなくなった。

 何年か経ち、春が訪れた。シダレザクラが見頃を迎え、灰色の街を彩っている。
 セツナが買い物袋を下げて歩いていると、明るい声が前方から届いた。地元のセーラー服を着た少女だ。精悍な顔つきをした雑種犬を連れている。
「あの、昔迷子になっていたココロを助けてくれたお姉さんですよね」
 といって、少女は屈み、犬の頭を優しく撫でる。犬が甘えるように鼻を鳴らした。
「こんなに大きく育ちましたよ。ほら、あいさつして」
 短く吠えて、心身ともに健康であることをアピールしていた。
 セツナは直視できなかった。社交辞令の言葉を述べると少女は照れたように微笑んで、手を振って去っていった。一人と一匹の足音は、花びらの絨毯が敷かれた並木道によく似合っていた。
 少女は純粋な心を持ったまま健やかに育っている。
 そのことだけは、よくわかった。

(了/2013.1)
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