卒業証書

 別れとは、悲しく、名残惜しいものだ。
 どれほどの諍いに胸を痛めていたとしても、どれほどの幸せに満たされていたとしても、それは等しく訪れる。すべてを綺麗な思い出に変えて。やがて、長い月日をかけて日常の隙間へと曖昧に埋没していく。だから、最後に残るのは後付けの記憶によって美化された断片だけ。それでも別れが寂しいのは、思い出が綺麗すぎるから……かもしれない。
 僕は、未だ別離に慣れることができずにいた。
 けれど、その瞬間は着実に近づいていた。
 卒業という名の予定調和に基づいて。
 ――決して叶うことのない思いを胸に秘めて。
 壇上で授与された卒業証書を小脇に抱えると、回れ右をして、最前ブロックのパイプ椅子の群れへと背筋を伸ばして歩いていく。後方には保護者や在校生たち、壁際には先生方が着席していて、否応なしに体が強張ることを自覚した。誇らしさと気恥ずかしさの共存。
 それにもかかわらず、無意識に目で追ってしまっていた。彼女を。未だ、名前の呼ばれていない彼女の姿を。
 当の本人は視線に気付くはずもなく、両手を膝の上に載せてじっと俯いていた。女子は卒業式に感極まって泣いてしまうものだと一般論として聞かされていたが、今のところそんな素振りを見せてはいなかった。
 僕は着席してからもそわそわと落ち着かないまま、名前が呼ばれるのを待った。
「時任雫さん」
 マイク越しに女性教諭がその名前を告げると、僕は自分の名前が呼ばれるときよりも緊張していることに気がついた。口の中はからからで、春先の冷たい空気が喉に張り付き、息をすることすら苦しかった。胸が、鈍く痛む。この感情の正体を知ることをいつも恐れていた。こんな、夢の中でさえも。
 はい、と彼女が返事をする。決して声量は大きくないけれど、明瞭に耳朶を打った。パイプ椅子から立ち上がる。
 静謐の中に、彼女の気配が満ちていく。
 思い出す。合唱コンクールの時、舞うように指揮棒を振っていた彼女を。
 思い出す。友達と笑い合っている時の横顔が、嫉妬するほど眩しかったことを。
 思い出す。思い出す。思い出す。 
 彼女が壇上に登った。
 誇らしげに前を向いて、
「仲本由衣さん」
 けれど、彼女は証書を受け取ることができない。一瞬の間が空いて、次の生徒が立ち上がる。
 もう“卒業”なんだよ、と誰かが囁いた。
 手ぶらで体育館を後にする彼女が浮かべて見せたのは、あの眩しいほどの笑顔だった。

(了、2010/8)
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