たそがれキャンディ

 穏やかで緩やかな二人だけの時間が流れていた。
 夕方、窓の外の街路樹が葉と同じ色に染まり、赤々と燃えている。
 入口に面している歩道を、母親とその子供が手をつなぎ、歩いていく。
 郵便屋がオートバイから降り、向かいの雑居ビルの螺旋階段を上っていく。
 部活帰りの男子中学生らがカバンを振り回し、誰かの名前を呼びながら走っていく。
 まだら模様の太った猫がビルとビルの隙間を器用にすり抜けて顔を出し、きょろきょろと辺りを見回すと、尻尾を揺らしてのそのそとどこかに去っていく。その後を追いかけるようにくしゃくしゃのレジ袋がつむじ風に吹かれ、飛ばされていった。
 穏やかで緩やかで、平和だった。
 店内に響くのは、頁をめくる音とノートにペンを走らせる音、それだけだ。
 冴島亜沙妃は、カウンターの奥で備え付けのパイプ椅子に腰掛け、文庫本に目を落としていた。表紙のカバーが所々破れかかり、小口が黄ばみ、角が折れ、装丁が甘くなり糊付けが弱くなってしまっていても、手放そうと思ったことは一度としてなかった。その文庫本は言わば亜沙妃の宝物だった。無論、この店の売り物ではないし、売るつもりも買いかえるつもりもない。
 内容はそらで粗筋や印象的な台詞を言えるほど読み込んでいる。甘酸っぱい一期一会の恋を描いた青春小説だ。主人公の男の子は自転車で全国を旅しているのだが、ある朝自転車のタイヤがパンクしてしまう。困ってしまった男の子は近くのサイクルショップまで押していこうと思ったが、運悪く近くの側溝に車輪がはまり、引き上げようとした際に足を滑らせ、捻挫を起こしてしまう。川沿いの遊歩道で立ち往生し、困り果てていた男の子。すると、見知らぬ同い年くらいの女の子が向こうからやってきた。助けてもらえることを当然男の子は期待するのだが、女の子は何故かきょとんとしたまま何もしてくれない。さりとて、無視を決め込んでいる様子でもなく、それどころか自転車に近寄って、興味津々にパンクした箇所を覗き込んでいる。彼女は軽度の場面緘黙症だった。だから、見知らぬ男の子に話しかけることなんてとてもできなかった。
 それから、男の子はその町に何日か滞在することとなり、その過程で女の子の家に厄介になる運びになった。最初の夜、女の子の最も好きなことが「芝居」だと彼女の両親に明かされる。けれど彼女は自分の病気を理由にして部活動に入部することもなく、一人台本を作り続けていた。その話を聞いた男の子は乗り気になって二人で芝居を完成させようと意気込むのだけど、当然ながら上手くいかない。女の子は男の子の前では喋ることができないので、筆談で自分の意思を伝えようとする。
 ――あなたはどうして旅をしているの?
 それが女の子が初めて男の子に伝えようとした言葉だった。
 男の子は迷いもなく笑って、自分の知らないものを見てみたいから、と言った。
 ――知らないものって怖くないの?
 ――当然怖いよ、だけどワクワクするほうが先に来るんだ。こんなにも自分の知らない町が、人が、景色があることに驚くんだ。だって、テレビとか教科書でしか見たことのないものが目の前にあるんだよ? ワクワクしないはずがないんだ。
 ――ふうん。何だか楽しそうだね。
 男の子が満面の笑みを浮かべると女の子もつられて微笑んでくれた。
 それから、二人はどんどん仲良しになり、台本を完成させ、練習することになるのだけど、女の子は声が出せないことに引け目を感じていた。折角だから自分で役をやりたいと考えるのだけど、上手くいかず、とうとう泣き出してしまう。
 男の子が彼女に対してできることは、とにかく自分に与えられた台詞を丸暗記して、いつ成果を見せてもいいように練習することだけだった。
 最後の日、結局、芝居はできずじまいのまま、男の子はこの町を出立することになった。心残りではあったけど、彼には行くべき場所、そして帰るべき場所があった。
 せめて悲しませないようと、早朝、女の子の両親に挨拶を済ませ、愛車にまたがって、静かにペダルを漕ぎはじめる。
 もしかしたら、と川沿いの遊歩道を進んでいくと、初めて会ったときと同じ場所で女の子は立っていた。
 女の子はいつもの画用紙とフェルトペンを持っていなかった。男の子は女の子の口から言葉が紡がれるのを待った。待ち続けた。
 そして、長い間のあと、女の子は芝居の台詞を震える声で諳んじて、そのまま振り返ることなく走っていく。
 男の子は大人になってから、あれが初めての失恋だったのかと気づき、そして物語は幕を閉じる。
 亜沙妃はこのジュブナイル小説が好きだった。数ある恋愛小説の一つにすぎないことは承知しているつもりだが、この小説ほど亜沙妃の胸を打った小説には今のところ出会っていない。たぶん、女の子の心情に共感するところが多少なりともあるからだろう。もちろん、亜沙妃は場面緘黙症の辛さを実感として受け止めることはできないのだけど、「伝えるべきことを伝えられない」もどかしさになら何度だって遭遇したことがあった。一度目は祖父の死に立ち会ったとき、二度目は喧嘩別れのまま遠くに引っ越してしまった親友に対して、だ。
 そんなとき、人生は一期一会なんだ、という男の子の台詞が重くのしかかっていたことを記憶している。
 物語の最後で女の子は勇気を振り絞って男の子に告白するシーン――それは台本の台詞を借りてはいたけれど――を読み返す度に彼女は思う――自分にもあんな勇気があればよかったのに、と。
 また、頁を繰る音が聞こえる。
 ぱらり、と。
 それは亜沙妃が自ら立てている音だった。
 実を言うと、今読んでいるはずの文章がまるきり頭に入ってこなかった。文字を追いながらも意味を咀嚼するだけの気持ちの余裕がない。
 赤く染まる景色。本から目を離し、柱時計を見上げるふりをして、カウンター越しにいる"彼"をそっと盗み見た。
 篠崎高校のブレザーがまず目に入る。彼はカウンターにノートを二冊広げ、片方のノートとにらめっこしながら、もう一方のノートにペンを走らせていた。一冊は亜沙妃のものだった。
 刈部太久郎――それが男子生徒の名前だ。クラスは二年三組、部活は陸上部、一度として同じクラスになったことも、委員会で顔を会わせたこともない。亜沙妃との接点はないといっても差し支えなかった。それがどういうわけか、太久郎はこうして宿題を写すために、亜沙妃の働く古本屋「タムラ書店」に足繁く通っている。客の入りは閑古鳥で、ほとんど誰も訪れることのないこの店だが、さすがにこれは営業妨害にならないかと不安になり店主にそれとなく相談してみたが、店主はひらひらと手を振り、いいのいいの、と笑うだけだった。
 太久郎は真剣な面持ちで眼球を左右に動かし、ペンを走らせる速度を緩めない。もっとも、本当に普段から真剣ならばわざわざ宿題を写す必要もないのだけど、それは彼女の胸の内にしまっておくことにした。
 夕暮れ色に染まる景色。会社帰りらしき背広のサラリーマンがチラリとガラスの向こうから店内に目を向けたが、何事もなかったように歩き去っていく。
 店内に響く、頁を繰る音と、シャープペンシルを走らせる音。
 緩やかで、穏やかで、平和な二人きりの時間が刻々と過ぎていく――亜沙妃にとっては内心どことなく落ち着かない気持ちを抱えたまま。
 ふと、ペンを走らせる音が、止まった。
 ずっとそれとなく聞き耳を立てていた亜沙妃は、心臓をぎゅっと握られるような心地だった。まるで、店内のすべてが止まってしまったみたいな感覚。
 おそるおそる本から目を離して、のびをするふりをしながら、彼を見た。
 太久郎が、じっと彼女を見ていた。彼女は思わず視線をそらしてしまうが、すぐにしまったと後悔する。けれど、もう遅かった。
「あの、さ。ちょっといいか」
「は、はい……」
 すっかり上がってしまった亜沙妃は、ぎこちなく、手をあちらこちらに動かしながら、言った。太久郎はそんな彼女の様子に少しだけ安心したのか、先程よりは心なしか固い調子を緩めて、ノートを彼女の前に差し出した。
「ここの問題がちょっとわからないんだけどさ、冴島ならわかるかなと思うんだけど、その、教えてもらえると……助かる」
「あっ、はい。はい……」
 亜沙妃は混乱の極致になりながらも、彼のノートに書かれた、殴り書きの文字とにらめっこをして、ようやく間違いをひとつずつ、丁寧に解説していった。太久郎の顔を見ることは出来なかった。
 ――さっきまでは、ずっと見ていられたのになあ。
 失礼だと思いながらも、視線を上げるのが、怖かった。
「うん、なるほどな。ありがとう。冴島の解説はわかりやすくて、助かったよ」
「い、いえ。こんな適当な答えでよろしければ……」
「じゃあ、ありがとうな。もうそろそろ帰るわ、俺。あんまり長居してるとお邪魔だろうし」
「そんなことは!」思わず席を立ってしまう亜沙妃。突拍子のない行動に太久郎が目を丸くする。「……ないです、よ?」
「そっか。またな」
 筆記用具とノートを片付け、鞄を持ち上げて、小さくはにかむ太久郎。浮かんだえくぼには少年のような面影があって、亜沙妃の胸は高鳴った。
「あ、あの!」
 踵を返した背に、亜沙妃は意を決して声をかけた。その理由はわかっている、けれど言葉にできない。いつも読み込んでいる言葉が、カタチになってくれない。これから自分が何を言おうとしているのか、考えなしに呼び止めてしまった。考えている間にも、時間は過ぎていってしまう。このままでは、変な子だと思われてしまう……。彼女の胸中に積もっていた思いを、伝えるにはどうしたらいいのか、その手段がわからなかった。
 だから、結局。
「あの、また、きてくださいね」そんな単純なことしか言えなかった。
 けれど、去り際に太久郎は、たしかに、頷いた。
 その事実に、亜沙妃は深く満足したのだった。
 ――今度こそは、伝えられるように、がんばろう。この時間がもっと長くなるように。
 そんな決意を、人知れず秘めながら。

/了(11.10)

inserted by FC2 system