七回裏、代打、ドルフィンキック

6.

「それじゃあ、競争を始めるか」と山田が唐突に言ったのは、軽い準備運動をしている時だった。山田は膨らませたビーチボールをバレーボールのレシーブをするみたいに両手で弄んでいる。「負けたら、昼飯はおごりな」
「ちょっと待った。いったい何の競争だよ」
「まったく鈍い男だなあ、ミキティーくん。今日何のためにここまで来たと思っているのかね?」山田がインテリぶって言う。「ナンパだよ。ナンパ。せっかくこういうところに来たんだから、声をかけないほうが失礼ってものだろう。先に連れてきたほうの勝ちな」
「そ、そんなの無理だって」
「無理とかじゃねえの。それにもっと言えば、俺はお前に昼飯おごってやりたいくらいなんだよ」
「それなら僕は昼飯代を余分に払うほうを選ぶ」
「そんなだからお前はへたれなんだよ」山田が万策尽きたといわんばかりに大げさに肩を竦めてみせる。
「できないことをできないと認めることも必要なんだよ」知らず知らずの内にいつもの僕が顔を覗かせる。
「それはできるやつが言って初めて説得力を持つんだよ。お前のは逃げだ。甘えだ。傲慢だ。いいからこい。見本を見せてやる」
 山田は僕の腕を半ば強引に引っ張ると、人ごみを掻き分けて進んでいく。日陰に設置されたサンラウンジャーで寝そべっている女性のところへ、一目散に近づいた。近づいてきた僕たちに対してか、あるいは日差しに乱反射した山田のネックレスのせいか、女性が訝しげに目を細める。髪はウェーブがかったセミロングで、極彩色のセパレートの水着を着ている。傍らにバッグが置いてあったが、他に連れのいる様子もなかった。僕は目のやり場に困り、思わず目を逸らす。
「ねえねえ、彼女、一人?」山田が猫なで声で言う。
「そうだとしたら」女性がけだるそうに答える。年齢は僕たちと同じくらいにも見えるが、実際のところはよくわからない。
「暇なら俺たちと遊ばない。水中バレーとかけっこうエキサイティングで楽しいぜ。こんなところにいたら暑いだけだろ?」
「余計なお世話よ」彼女はふい、と顔をそらした。これは僕にもわかる。失敗したな、と。しかし、山田は大して落胆の色も見せずに、そうか、と短く言った。じゃあ、俺たちは先に遊んでいるから気が向いたらこいよ、とだけ残して、その場を後にする。
「なあ、山田」
「心配するな。今のでかかったはずだ」まるで、擬似餌を持っていかれても悠然と構えている釣り人のようなことを言う。
「絶対嘘だ」
「まあ見てろって」
 適当なスペースを確保すると、山田がトスをあげる。
 僕たちはしばし、ラリーに興じた。ぽん、ぽん、とビーチボールが山なりの曲線を描いて往復する。軌道が太陽に重なる。眩しくて目を瞑ると、その隙を狙い済ましたかのごとく、山田のアタックが飛んでくる。僕は受け止めきれず、ボールを後逸してしまう。
 よっしゃあ、と山田が背後で快哉を叫ぶ声が、騒音に混じって聞こえてくる。まったく、と僕は呟いた。転がっていくビーチボールを追いかけていくと、誰かの素足に当たる。すみません、と僕は声をかけ、ボールを拾おうとした。けれど、相手はボールを拾いあげ、僕とボールを見比べる。
「あ」
 我ながら情けない声が漏れる。顔を上げると、彼女がいた。文房具店の一人娘。人並みに反抗期で、人並みに強情な彼女。僕は、驚きを通り越して、どこか夢心地の気分になる。まさか、自分の言葉のせいでなどと思い上がったことを言うつもりなどないが、やっぱり言ってみるものだなあと、いるかもわからない神様と偶然に感謝してみる。
 けれど。
「あたし、ここには結構来るの、ストレス発散に。三木谷も?」
「まあ、似たようなもの、かな」
「ふうん。じゃあ、あたしは行くわね」
 僕にビーチボールを手渡すと、あっという間に遠ざかっていく彼女。ろくに言葉をかける機会さえない僕。
 おおい、早く来いよ、と山田の声。
 ……結局、僕の結果なんてこんなもんだよな。

「山田、ずるいじゃないか」僕はプールサイドでにやけ顔を崩さない山田に憤っていた。彼は手を合わせて悪い悪い、と謝っていたが、そんなんじゃ腹の虫は治まらない。「それじゃあ、ナンパとは」言えない、を手で遮って、山田は不敵に笑う。
「結果に至るまでのノルマをあらかじめ達成していただけさ」
「根回しだ」
「そうとも言う」
「裏工作だ」
「何とでも言え。というか、こと"ずるさ"に関してはミキティーの右に出るやつはいないと思うけどな」僕の追及をかわしながら山田がカウンター攻撃を繰り出す。返す言葉もない。
 しかし、つくづく観察眼のないやっちゃなぁ、と追い打ちまでかけられる始末だ。サンラウンジャーで寝そべる女性と山田の顔を交互に見やる。何度か山田がガールフレンドと一緒にキャンパスを歩いているところを見かけることはあった。でも、しょうがないじゃないか。水着姿に対する免疫がない僕が、人の、ましてや女性の顔をまじまじと見ることがあるはずないんだから。加えて髪型まで変わっていたら、もうお手上げだ。
 ――それにしても、『結果に至るまでのノルマ』か。
 そういえば、と一回生の頃、社会学の講義を受けていたときのことを思い出す。
 なかなかに風変わりな講師で、人生ゲームを教材に使って講義を進めていた。グループワーク形式で、僕と山田、それにあと何人かで組んで、ディスカッションを重ね、最終的に議論をまとめたレポートを提出する、という流れだったように記憶している。僕らのグループはゲームを一通りやってみるところから始めた。
 不思議なことに、ゲームというのは人の性格がよく出る。例えば七並べでは、特定のカードをせき止めているのは大抵同じメンツだし、ダウトに至っては涼しい顔をして嘘のカードを伏せるのが実に上手い人がいる。人生ゲームは双六とよく似ているが、決定的な相違点がある。マス目を進めることによって、人が人生の上で経験するはずのイベントを擬似的にこなしていくのだ。また、止まるマス目によってはさまざまな指示内容が表記してあるので、順風満帆にゴールへ進むことが非常に困難である。たまに、マス目が分岐して、それぞれのルートへ進む事があるのだが、僕は堅実で罠の少なそうなルートを選んでいた。ところが、山田は波乱万丈で、その癖やるべきことはきっちり早めにこなす順路を積極的に選んでいた。
 いったいなぜそんなにリスクを犯してまでその道を選んだのかと、講義終了後に尋ねてみると、「俺は常に一歩先へ行きたいんだ」と実に単純明快な回答が返ってきた。
「ほら、苦は楽の種、楽は苦の種とよく言うだろ? 後から苦しいことはしたくねえんだよ、俺はさ」
「たかがゲームなのにか」
「たかがゲームであっても、だ」
 合点のいかなかった僕は、そんなに生き急いでどうするんだよ、と山田に詰め寄ったけれど、死に急ぐよりかはマシだろ、と答えになっているのかいないのかよくわからない詭弁ではぐらかされるだけだった。
「ま、昼飯はちゃらってことでいいぞ。ミキティーは正々堂々とした勝負をお望みみたいだからな」という山田の声で現実に引き戻される。
「虚仮にして」と僕は言うが、それを弾き返すほどの実行力も、勇気もなかった。「山田は最初から彼女とよろしくするつもりだったのかよ」けれど、悔し紛れにナイフみたいな鋭さを隠し持った言葉が飛び出す。
「だから、それについては悪いって。最初は呼ぶつもりなんてなかったんだけどさ」と、サンラウンジャーから身を起こした山田の彼女を振り返りながら、後頭部を掻く。「まあ、なんだ。泳いで泳ぎまくろうぜ、ミキティー。有酸素運動は体にいいらしいぞ」
「いやだね」僕は即答する。「僕だって、いつまでもこんな自分は嫌なんだ。それは自分が一番よくわかってる。山田が僕を変えてくれようとしていることにも感謝している。でも、ダメなんだ。こんななあなあで終わってしまったら、自分で自分を許せなくなってしまいそうなんだ」
「ミキティー……」
「僕だって、昨日それができたんだ! だから、」
「昨日って?」
「え」
「昨日お前何かあったのかよ?」山田の眼差しが期待と羨望に満ちたものになる。それが僕には痛かった。
 僕は覚悟を決めて、昨日の文房具店での一件をかいつまんで彼に説明する。彼はそれに頷き、腕を組み、渋い顔をした。
「で、お前はちゃんと約束を取り付けたのかよ」山田が詰問する。
「か、考えとく、って」
「お前なあ……詰めが甘いんだよ、もっとこう、さあ。ああ、むず痒い!」
「なんで山田が怒ってるんだよ。それに、彼女は今来てるんだ、ここに」
「はあ?」彼は素っ頓狂な声をあげる。コーラを啜っていた山田のガールフレンドがオーバーリアクションにびくっと肩を震わせた。「今すぐ連れて来い。これは命令だ」
「いったい、なにを」
 山田は僕を指差し、宣戦布告する。「勝負するんだよ」
 僕たちは、奥の五十メートルコースの競泳用プールに来ていた。手前側と違い、ここは人気がまばらで、水深も深く、レーンが区切られ、飛び込み台が設置されていた。入り口の注意書きによると、一般開放日では、飛び込み台を利用することはできないらしい。暇そうにしていた監視員がメガネを指で押し上げ、僕たちに注意深く目を光らせた、ように見えた。
 僕は横目で彼女の様子を窺う。柄物のワンピース型の水着が、痩身で健康的な彼女によく似合っている。温い風が水面を揺らすと、それに合わせて彼女の髪が揺れた。視線はどこか遠く、プールの反対側を見つめている。五十メートルは決して短い距離ではない。というか、今まで泳いだこともない。不安が募る。
「それじゃあ、肩慣らしと行きますかね」
 そんな僕の不安を吹き飛ばすかのように、山田が高々と声を上げる。女性陣は申し合わせたようにプールサイドに回りこみ、体操座りでぼうっと事の成り行きを眺めている。
「勝負は一回きり。勝っても負けても恨みっこなしだ。一往復、つまり百メートルでゴールとする。型は問わない」淡々とルールが告げられていく。「罰ゲームは、そうだなあ……」と、プールサイドをちらと見遣ると、僕のそばに近づいて耳打ちした。
 (ほっぺにちゅうする権利をやる)
 (え、ええー!)
 (俺の)
 (いらんわ!)
 ひひひ、と意地悪く笑うと、僕から離れた。「さて、純情なミキティーと秘密協定ができたところで、始めようか」
 ええ、気になるーとプールサイドのギャラリーから黄色い声が上がる。山田の彼女が盛り立て役を買って出ていた。隣の彼女にも気さくに話し掛けている様子から、さっきの澄ました態度は演技だったんだなとようやくわかった。
 プールに着水する。水深一・六メートルは伊達ではなく、足をつけるのにも一苦労だ。隣のレーンですでにゴーグルも着用し、準備万端の山田といえば、長身のお陰で肩まで浸かる程度にとどまっている。引き締まった体に筋肉がほどよくついていて、やっぱり運動部は一味違うなあ、と思い知らされた。
 水は生温いが、慣れてくると、ほどよい冷たさで全身が心地よい感覚に満たされる。ああ、懐かしいな、と思った。日差しと、青く照らされる水面と、塩素のにおい。水底のコンクリートのざらついた感触と、解放感と、えもいわれぬ昂ぶり。まるでタイムスリップしたような心地になり、ああ、やっぱり人類は水と親和性が高いのだな、と納得してしまう。
「よし、僕はもう準備できてる。山田は?」と隣を見ると、唇を紫色に染めて、体が小刻みに震えていた。「だいじょうぶ?」
「ミキティー」山田が不安を全身に滲ませて、けれども強がるように、平気な顔を作った。「俺は足を攣ってしまった。ここは俺に任せて、早く行け!」
「要するに、泳げないんだ」僕は遠慮なく言ってやる。「自衛隊失格だぞ」
「いや、本当に足を攣ったんだよ。今しがた」山田は水中でけんけんしながら、ふくらはぎを押さえてみせる。
「勝負はどうするの」
「勝負はいつだって自分との闘いだ。覚えておくんだな、ミキティー」山田はざぶざぶと水から上がると、ほっと安堵の息をついた。なんというか、もう、滅茶苦茶だ。
 僕は、気を取り直して、ゴーグルを着用し、思いっきり息を吸い込んで、水中に潜る。水圧で耳がきいん、と鳴る。水泡が口から吐き出され、しばらく水中の世界を堪能する。見上げると波打つ水面が薄い膜のように光っていて、そこから別世界に行ける錯覚に囚われてしまった。けれど、と僕は首を振る。今まで別世界と決め付けていた領域はすべて隣り合わせで存在していて、そこに進入する勇気がなかっただけなんだと、思う。他者との相違に囚われすぎて、踏み出せなかった僕。他者との相違を隠すために、本当の自分を覗き見るのを拒んできた僕。そういった自分を乗り越えるには、きっと多くの時間と、諦めるための覚悟が必要なんだと思う。だけど。だから。
 水面に顔を出す。相変わらず真夏の太陽は僕らをじりじりと照らし出すけれど、心は決まっていた。明鏡止水の心境で、向かうべきゴールを真っ直ぐ見据える。
 泳ぎきってやろう、全力で。
 僕は合図の代わりに、開会式で宣誓する選手のように右手を上げた。それから、壁を両足で思いっきり蹴り出し、額から着水し、全身が水底と平行して、けのびの姿勢になる。
 中学時代を思い出す。いつも自己流の滅茶苦茶なフォームで泳いでいるから、先生に怒られたなあ、とか、けのびだけでどこまで行けるか勝負しようぜ、としょうもないことをしてたなあ、とか、二枚のビート板の上に両足を載せて忍者ごっこをしていたら、股が開いていって大変なことになった、とか。両腕を交互にかき、足をばたつかせ、カウントを数えながら、そういった記憶が水中を通して流れ込んでくる。
 いつから、いつまで本気を出さないことが格好いいなんて信じているのだろう。
 そりゃ、本気を出したって高が知れているけれど。ちっとも、前に進みやしないけれど。
 自分のずるさとうまく向き合うにはどうしたらいいんだろう、そんな気持ちが水中に反響しては、泡と消えていく。答えなんか出そうもないのに、もがいている。ないから、かもしれないけど。
 そんな余分な思考の合間にも、体力は徐々に削り取られていく。
 まるで、別人みたいな、自分が自分でないみたいな、そんな不可思議な感覚だった。こうして、水を掻き、顔を上げ、息を吸いこみ、両足を蹴って、水中で息を吐き出し、前に進んでいるのは、まぎれもなく自分自身だというのに。
 五十メートルが、遠い。こんなに遠かったっけ、と思いながら、意識も遠ざかりそうになるのを自覚する。ああ、もっと日頃から運動しておけばよかったなあ、と思っても今更遅い。
 腕が痺れる。耳がつん、と鳴る。足がもつれそうになる。息が苦しい。
 ふと、マラソンのランナーを追いかけるファンみたいに、プールサイドから僕を追う人たちが三人、ゴーグル越しに見えた。山田と、山田のガールフレンド、それにもう一人――彼女が。
「もっと速く」「お前ならやれるはずだ」「みっちゃんの結果はそんなものじゃないだろう?」
 そういった声が聞こえてくる気がした。もっと速く、生き急いでみせろよ、と。お前の悩みなんか、目の前の困難に比べたら大したことなんかないぞ、と。激しく波打つ水音に混じって。
 僕は、上半身をねじりながらターンの姿勢に入る。顔を上げ、壁に足をひきつけて、腕を壁に押しつけ、渾身の力で、壁を蹴り出す。そして、体をうつぶせにして、もう一度けのびの状態になる。
 両足を揃え、腹筋を使い、腰を上下させる。さらに推進力を増すために、膝から下で水を後ろに蹴り出す。だんだん慣れてきて、余分な力がなくなっていく。ああ、今生きてるなあ、と曖昧な充足感に包まれそうになる。残り三十メートルあまり。僕は確信した。
 そうか、僕にもできるのだな、と。

 プールから上がると、疲労感が全身を包んだ。宇宙から戻ってきた宇宙飛行士みたいに、重力を感じている。たまらず、その場に仰向けになる。でも、やりきったぞ。僕は太陽に向かって快哉を叫びたくなった。
 ふと、頭上が濃い影で遮られる。やさしさと、熱と、最上級の明るい笑顔を伴って。
「やるじゃん、意外と」
 ああ。
 なんというか、もう。
 その一言で、僕は救われたような気がした。

「ねえ、知ってる?」
 プールから上がって、隅の木陰で休憩している頃、彼女がスポーツドリンクを両手に持ってやってきた。そのうちのひとつを僕に投げて寄越す。礼を言うと、彼女は胸を張って、誇らしげに言った。
「あたしの仇名もみっちゃんなんだよ。未来だから、みっちゃん。だから、お父さんが三木谷のことをみっちゃんって呼ぶ度に、なぜか負けたような気がしてた」
「だったらさ」山田が面白そうな臭いをかぎつけたのか、間に割り込み、僕らを交互に見ながら、笑う。「ミキティーでよくね?」
「よくない」
「よくない」
 僕と彼女のツッコミが同時に決まった。

(了、09.8)
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